「ちょっと」。1997年4月上旬のある日、事業報告を終えて社長室を辞そうとしたときだった。帝人専務(現会長)の安居祥策は、社長(現相談役)の板垣宏に呼び止められて立ち話になった。「君に社長をやって欲しいと思っている」 安居は「他の人がいるでしょうに……」と言ったきり言葉が出ない。「普通ならば考える時間をあげるのだが、ここで、すぐに返事をしてくれ」と、板垣は有無を言わさぬ迫力でたたみかけた。「私も含めて誰もが、私が社長になれるとは考えていなかったし、優れた諸先輩がたくさんいた。もし考える時間を1日もらえていたら絶対に断っていた」 板垣は、それを見越して即断を求めたのだ。たしかにキャリアから見れば誰も安居が社長になれるとは思っていなかった。それまで40年間のサラリーマン生活の半分を五つの出向先で過ごし、取締役に就任したのは五七歳。同時期に就任した新任役員では最年長だった。98年の改選期には“年季明け”を見込み、自ら呼びかけた基金によりインドネシアで設立にこぎ着けた日本語学校の教師をしようと通信教育を受けていたほどだ。 二週間後、新聞に帝人社長の後任人事決定の記事が掲載される。そこにあったのは別の役員の名。確認に走った広報担当者に板垣は「誤報だ」と言い、すぐに安居新社長決定の記者会見を設定するよう指示した。吉川勝広報・IR室長は、「新社長は安居と聞かされて、役員の中でも一番大変な人が社長になったと思いましたね」と振り返る。役員会では率直に意見を述べ、「反対すべきことに反対しないのは役員の責任回避だ」と言ってはばからない“遅咲きの異端児”が社長になれば、広報担当としてはしっかりと脇を固めていかねばならない。

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