ローマ法王ヨハネ・パウロ二世は五月末、初めてブルガリアに足を運んだが、この九十六回目の外遊は二十一年前の暗殺未遂事件をめぐる「法王の最後の執念の産物だった」(バチカン観測筋)。 即位三年後、一九八一年の法王銃撃事件は、当時のポーランド危機に絡み、旧ソ連国家保安委員会(KGB)の指令の下、ブルガリア情報機関が準備し、トルコ人極右青年が実行したとの見方が一般的。しかし、即位当初、リベラル派と目された法王を快く思わないバチカン超保守派のバチカン高官がトルコ人青年に暗殺を依頼した疑惑が近年、急浮上している。 法王は、会談したプルバノフ・ブルガリア大統領に対し「暗殺未遂事件へのブルガリアの関与を信じない」と言明。これは、表向きはブルガリアの「罪」を赦す宗教的和解のポーズと受け止められているが、法王の意図は鬼籍に入る前に自ら内部犯行説を言い遺しておくことだった可能性がある。 バチカン超保守派は、カトリック原理主義を掲げつつ、イタリア・マフィアなどとのパイプを通じて強大な集金力を誇り、「バチカンの中のバチカン」を形成。法王選出にも絶大な影響力を持つに至ったとされる。

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