黒い爪 高橋昭博『ヒロシマいのちの伝言』

執筆者:船橋洋一2002年9月号

 広島市の原爆資料館のガラスケースの中に「黒い爪」が展示されている。鴬のくちばしのような醜く、黒く、湾曲した物体である。 一九四五年八月六日、原爆が投下された時、爆風で飛散したガラス片が右手人さし指の爪の生え際に突き刺さった。被爆後一年ほどして緑色がかった爪が生え始め、そのうち黒くなる。二、三年経ち二センチほどにのびると根もとに亀裂が入りポロッと自然に落ちる。五十七年後のいまもその部分から黒い爪は押し出されてくる。 写真では捉えられない内なる破壊の恐ろしさが伝わってくる。底冷えのする恐怖とでも言おうか。 爪の主の名前が記してある。 被爆者・高橋昭博。     * 中学二年生だった。運動場で朝礼を待っていた。 同級生の一人が上空を指さし、叫んだ。「あっ、B29だ!」 警戒警報も空襲警報も出されていなかった。 級長が朝礼の教師を迎えるため、「整列!」と号令をかけた。隊列を整えた、その瞬間だった。大轟音がとどろき、周囲は一瞬にして真っ暗闇になった。体が瞬時に十メートルも吹き飛ばされた。イデオロギー化した「ヒロシマ」 煙が薄くなり、視界が広がり始めると、そこは一面の地獄だった。 自らも背中に焼けるような熱さを感じた。手のひらはフグの腹のように膨れ上がり、皮膚は黄色に変色、両手と両足の皮膚もすりむけて、ぼろ切れのように垂れ下がっていた。

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