今井敬はなぜ袋小路に迷い込んだのか

執筆者:喜文康隆2003年1月号

「とことんまで行くと、人々は悲劇をもう悲劇と認めたがらない」(小林秀雄『政治と文学』)     *「あきれてコメントもできない」「相手にする必要もない」――道路関係四公団民営化推進委員会が、今井敬委員長の辞任・退場という異例の幕切れと引き替えに最終報告を提出した十二月六日、自民党衆議院議員で高速道路建設推進議連会長の村岡兼造は新聞紙上でこう語った。 今井敬は議論の最終局面に至って七人の委員のなかで孤立、委員長退任の道を選んだ。経団連会長を勤め上げ次期日銀総裁の最有力候補にも擬せられていた男が迷い込んだ袋小路は、元を正せば村岡を含めた自民党政治家の積年の無責任の結果である。しかし、経世会のなかで馬齢だけを重ねてきたこの老残には理解できないらしい。時代を読むステイツマンシップと合理精神の欠落したこの国の政治家の身代わりとなって、今井は築き上げた栄光を失ったのである。エッジを渡り続けた戦後型エリート 今井敬。この硬骨にして怜悧な経営者を、私は「新日鉄が生んだはじめての合理主義者」と呼んだことがある。一九九三年、今井が新日鉄の社長に就任したときである。 永野重雄・稲山嘉寛という明治生まれの先輩によって、八幡製鉄と富士製鉄が合併し新日本製鐵が誕生したのは一九七〇年のこと。急速にすすむ産業構造の転換にもかかわらず「鉄は国家なり」という感覚からぬけきれないでいた同社の中で、今井はひと味ちがうタイプだった。徹底した世界市場志向とナショナリストとしての矜持を併せ持ち、合理主義者でありながら「市場主義」と一線を画するという頑固さは、彼の生まれや育ちを抜きにしては理解できない。

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