最初は、几帳面な人だと思っただけであった。しかし自著に掲載されている執務風景の写真を見て、「なるほど」と思った。長さが四メートルはあろうかという大きなテーブルに、届いたファクスやプリントされた電子メールなどがきれいに並べられ、一番手前には予定が書き込まれた月間カレンダーが置かれている。今日なすべき仕事と明日以降へと持ち越される仕事。それらをカレンダーを軸に俯瞰しながら考え方をまとめていく。これは、稀代の広告プロデューサーの癖であり、仕事のノウハウなのだろう。 藤岡和賀夫の仕事を改めて紹介すれば、一九七〇年に「モーレツからビューティフルへ」というキーワードを掲げ、高度成長から「豊かさの時代」への変化を巧みに捉えた企業キャンペーンを企画。また七〇年代から八〇年代の初頭までは「ディスカバー・ジャパン」「いい日旅立ち」「フルムーン」などの国鉄キャンペーンを手がけ、さらには三井物産の企業キャンペーン「三井教養セミナー、学びの出発」や同グループによる海外への日本文化紹介事業「クローズアップ・オブ・ジャパン」で企業の手による文化事業の重要性を世に知らしめた。 筆者が思い出す仕事は、七七年に日経新聞に六日間にわたって掲載された「ゼロックス人名簿 同時代の発言者たち」である。日本初の“連載広告”で、タイトル通り論壇を中心にして同時代の発言者一七一人の略歴やコメントを紹介し、切り取って折りたたむと都合二四ページの簡易人名辞典が完成するという広告だった。スポンサーである富士ゼロックスの広告は、人名の間にたまに社名が載るだけだったが、同社がコピー機器だけでなくドキュメント(テキスト)手法の高度化などを担う企業であることを強烈に印象づけていた。

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