原書(“Empire”)で五百ページ近く、邦訳で六百ページに迫ろうとする大作が静かなブームを呼んでいる。タイトルは、ズバリ、『帝国』(以文社)である。恐ろしく思弁的で、しかし妙にリアリティに富む硬派の本が、人々を惹きつけるのはどうしてなのか。 言うまでもなく、多くの人々が、唯一の超大国アメリカに「帝国」のイメージを重ね合わせているからだろう。 でも「帝国」とは、アメリカそのものではない。共著者のアントニオ・ネグリとマイケル・ハートの言う「帝国」は、特定の主権的な領域国家ではないのだ。それは、固定した領土や国家的な主権とは無縁であり、むしろそれを超えた脱領域的で中心をもたないグローバルな「指令」のネットワークを指しているのである。 確かに、こうした新たな「帝国」的主権をわかりやすく思い描くとすれば、それは、アメリカあるいはアメリカニズムということになるだろう。 だが繰り返すが、「帝国」は、アメリカやアメリカニズムと同じではない。にもかかわらず、やはりアメリカが、グローバル化の事実上の「覇者」とみなされているのは、決して理由のないことではない。 ここで本書の論争的なテーマの一つであるアメリカ論が展開されることになる。要するに、アメリカがグローバル化の「前衛」にいるのは、アメリカが、近代ヨーロッパの国民国家的な主権とは違ったネットワーク型の主権概念を打ち立てたからである。アメリカの政体構成(憲法/constitution)は、無限のフロンティアに開かれた、ネットワーク状に拡大する権力の編成を意味しているのだ。この点でアメリカは、特定の領土的支配を目的とする「帝国主義」とは違っていることになる。

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