「サロン」の残り香も消えて

執筆者:大野ゆり子2003年7月号

 作曲家グスタフ・マーラーの妻アルマは、恋多き女であった。ウィーンの芸術家の家に生まれ育ち、優れた芸術的感性と美貌に恵まれた彼女は、十九歳も年上だったマーラーの死後、バウハウスの創始者である建築家のグロピウス、その後、作家のフランツ・ヴェルフェルと生涯に三回結婚する。「音楽」「建築」「文学」という芸術の三分野の天才を夫に持つだけでも珍しいことのはずなのに、彼女が親しく交際した相手はそれだけに収まらない。画家のクリムト、作家のホフマンスタール、シュニッツラー、作曲家のベルク、シェーンベルク、劇作家のハウプトマン――。マーラーの死後に若き未亡人のアルマと激しい恋に落ち、後に失恋した画家のココシュカなど、一年もかけて彼女にそっくりな等身大の人形を作らせ、それをモデルに作品を描くことで、心の痛手を埋めようとした程である。 最近、生前のアルマと親交があった音楽学者と話をする機会があったが、よく言われているように、彼女は天才を蠱惑する天才であり、狙い撃ちされてしまった芸術家は、まるで蜘蛛の巣にかかってしまった小動物のように、彼女の前に無防備に身を晒すしかなかったようである。 この学者が所有するアルマの直筆の手紙は、彼女のそうした恋の駆け引きの天才ぶりの一端を窺わせる。一枚目の便箋には、大抵、藤色のインクで「親愛なるあなた」とだけ大きく書かれているのだという。儀礼的な挨拶が、それによって急に濃厚な親密さを帯び、「ひょっとして俺だけに」とあまたの天才に意図的に勘違いを与えたらしい。

記事全文を印刷するには、会員登録が必要になります。