狩猟民族型ビジネスマンの戦いの日々(上)

執筆者:梅田望夫2003年10月号

「ものすごく生意気だったから、こりゃあ頭を押さえられるだろうなと。それが恐怖でしたね。自分が思うことも言えない人間にだんだんとなっていくのは哀しいこと。それを予感するのがとても嫌だった」「医者には向かなかったですねぇ。患者さんを真剣に思いやる気持ちというのが僕にはなかった。医者の世界はこれから斜陽産業になっていくとあの頃から確信していましたけど、産業だなんて、そんなふうにモノを考える奴が医者になっちゃいけないんですよ。本当に向かなかったですねぇ」 広島学院高校から慶應義塾大学医学部に進んだ金子恭規(一九五三年生れ)は、「患者さんを助けたいと心から思う人以外、医学部を出てもそこには何もない」と結論づけ、医局に入って半年で退職。一九七八年、カナダとアメリカへ初めての海外旅行に出た。「医者の狭い世界」での言いようのない閉塞感から解き放たれて「明るい気分になっていた」金子に、カリフォルニアの空気がすんなりと馴染んだ。「よし、ここに来るか」 金子はスタンフォード大学ビジネススクールに進むことに決めた。入学した一九七九年秋といえば、バイオテクノロジー産業ブーム前夜。医学部出身で野心満々の日本人ビジネススクール学生という珍種が、飛ぶ鳥を落とす勢いの新興バイオベンチャー、ジェネンテックと出会ったのは、時代の必然だった。一年生が終わったところで、金子はジェネンテックから「給料を払うから、大学に行きながらでいいから入社してほしい」という異例のオファーを受ける。行き場を失っていた金子の過剰なエネルギーは、しばらくの間、ジェネンテックに落ち着き場所を見つけることとなった。

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