ヴェネチアに悲劇の主人公を訪ねる

執筆者:大野ゆり子2003年10月号

 ヴェネチアを訪れたのは、カーニバルの時期だった。晴れ渡った空が大運河に映り、水面はきらきらと輝いていた。十八世紀の衣裳を着けた人々の群れが聖マルコ広場のあちこちで気取ったポーズを取っている。その中の一人は大げさな身振りで、「我こそはドン・ファンのモデル、ヴェネチア生まれのカサノヴァである」と通りすがりの女性に愛想を振りまき、道行く人の笑いを誘っていた。 街はどこまでも陽気で、享楽的で、しかし、どこか虚ろだった。同じヴェネチアでも本土側のメストレ出身の友人が、島の人間はどこか本心が読めないと話していたのを思い出す。アドリア海の強国として確固たる地位を築きながらも、水の上という不安定な環境に住む運命がここの人間に極めて複雑な二面性を与えたというのだ。 実際、ヴェネチアほど訪れる人にいろいろな表情を見せる都市はない。父親のおみやげだったゴンドラの模型を大切にしていたゲーテにとっては、ここは訪れる前から胸の高鳴る街であったし、ゴンドラの舟唄はこのうえなく人間的で力強く、生命を肯定するものであった。その同じゴンドラがトーマス・マンの『ヴェニスに死す』では、不安やおののきを呼び起こす存在になる。主人公の初老の作家は、黒くニスが光るゴンドラを見て棺桶を連想し、ひそかに怖じ気づく。彼のヴェネチアでは、運河から吹くやわらかく湿った風までもが、まとわりつく死の予感につながるのだ。

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