武富士は野村証券になれるのか

執筆者:喜文康隆2004年1月号

「貨幣それ自体を商売の対象にし、利子というこれまた貨幣のかたちで利益を獲得する存在である高利貸しに対して、共同体はみずからの存立基盤を崩すものとして常に激しい敵意を示してきた」(岩井克人『ヴェニスの商人の資本論』)     * テレビの画面を通じて、しばらく忘れていた顔に出会った。十二月二日、武井保雄武富士会長が逮捕された日の緊急記者会見。「まことに申し訳ない」。くりかえし頭を下げる誠実そうな風貌。それが久しぶりにみる清川昭の姿だった。 武井保雄の逮捕は、盗聴という悪質な犯罪に東証第一部上場企業の現職の会長が関与していたという事実によって世間に衝撃を与えている。しかし、少しでも事情を知るマスコミ関係者にとっては意外でもなんでもない。武富士という会社を創り、育て、守り、壊した要素の全ては、武井保雄という異形のトップに行き着くように思えるからだ。武富士問題を「武井問題」としてみるかぎり、今回の逮捕劇もこれまでに武富士が何度も経験してきた不祥事のデジャヴュ(既視感)の物語に過ぎない。 案の定、週刊誌やテレビでは「左の腕に鯉のイレズミをしていた男」「暴力団組長との接触」「気に入らない幹部は即日首にする男」「テレビCMの武富士ガールズをひとりひとり人選する執着心」「自宅で女子社員のパジャマパーティーをする男」などと、虚実とりまぜたエピソードが繰り返し語られている。この手の話がとりあげられればとりあげられるほど、日本の金融システムにおける消費者金融の位置づけという普遍的な問題が、武井保雄という特殊な人間の物語へと転化してしまう。問題の本質は、武井保雄の異常さが繰り返し噂にのぼりながらも、武富士がわずか四十年足らずの間に、どうして日本の消費者金融の雄になりえたかである。

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