サダム式? それともカダフィ式?

執筆者:徳岡孝夫2004年2月号

 人は民主主義をさも大切な、ほとんど神聖なもののように言う。だが実践してみると、それは何よりまず退屈で、知的刺激がない。何万何十万の民が声高に己の不平不満を言うことにより、成り立つ主義だからであろう。民主主義の下では「問題」は大きくなるが「人」は小粒になる。多数決や妥協からは輝きが発しない。 独裁は違う。独裁体制は、常にピシッとしている。権力は一点に集中し、すべて単純明快で美しい。戦後日本にも、凄い独裁者がいた。連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサー元帥である。 彼は戦犯を引っ捕え、天皇の訪問を受け、戦時中の指導者(新聞社では編集局次長以上)を全員クビにし、憲法を与え、朝鮮戦争が起きるや共産党の幹部らをレッドパージした。その間、一度も民情視察などしなかった。あの改革を民主主義でやっていたら、戦後日本は今日のイラクみたいな混沌に陥っていただろう。 ただ独裁者の疵は、末路が必ずしもよくないことである。サダム・フセインは髪も髭もボサボサの情けない姿で、農家のあなぐらから引っ張り出された。日本の小さい独裁者たちは巣鴨プリズンにつながれ、マッカーサーはニューヨークに帰って大歓迎されたが、議会で名演説をした後はワシントンに招かれず相談も受けなかった。

記事全文を印刷するには、会員登録が必要になります。