「会社」という存在の二面性を自覚せよ

執筆者:喜文康隆2004年3月号

「自分の中のインテグリティの欠如を棚に上げて、見せしめのための悪人を選び出す『世論の正義』ほど思想に縁遠いものはない」(村上泰亮『反古典の政治経済学』)     * マスメディアにながく身を置いているが、今ほど面白い時代はないと思っている。メディア自身が大きく揺れつつ、その位相を換えようとしているからだ。しかし、メディアに身を置く人間たちが、その“面白さ”を自覚的に意味づけ、満喫しているかどうかとなると定かではない。それどころか、一九八〇年代から九〇年代という本当の転機に、その最前線の動きに鈍感だった人たちが、居丈高に現状を嘆いてみたり、危機を連呼したりしている。 二十世紀を代表するアメリカのジャーナリスト、ウォルター・リップマンが、その著書『世論』のなかで提起した「ステレオタイプ」という概念。「マスメディアが真実として伝える像は、真実の像ではなく、大衆が真実らしいと思う像である」。この古典的にして本質的なマスメディア論(つまりマスメディア版の『バカの壁』)を踏まえて、メディアの限界と役割を冷静に考えている人は、マスメディアの内部だけでなく、それを批判する人たちのなかにも少ない。 新聞経営者の家に生まれたスペインの哲学者にしてジャーナリスト、オルテガ・イ・ガセットは、著書『大衆の反逆』の中で高度大衆社会における大衆像を描き出し、共同体の崩壊に対する危機感と絶望を語った。「諸君は若者たちが『新しいモラル』を口にする時、そのいかなる言葉も絶対信じてはならないのである。わたしは、今日このヨーロッパ大陸のいずこにも、一つのモラルの外観を示している新しいエトスを持った集団は存在しないと断言する」。一九三〇年にこう語ったとき、オルテガは大衆社会の成立のなかにファシズムにつながる奔流を読みとっていた。

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