追いかけてくる老人超大国

執筆者:徳岡孝夫2004年3月号

 戦争が済んで六十年近く経つのに、シナ人は日本を軍国主義だと見ている。ことあるごとにそう言い、いわゆる「歴史カード」を執念深く切る。人間が記憶をそんなに長く引きずっていいのなら、私が昔の「上海の電信柱」を語るのも許されるだろう。 この間まで中国政府に招かれる政治家や言論人は、みな親中派だった。北京空港で学童の「熱烈歓迎」を受け、人民大会堂で周恩来総理と会談(というより引見され)、当時すでに横浜では珍しくなかった「本場の中華料理」を供され、感激して帰ってきた。それは彼らの政治上、言論上の実績になった。 一同が安楽椅子に座り横一列に並んだ記念写真が、朝刊の第一面に載った。各自の足元に置いた痰壺も、一緒に写っていた。私は見るたび新聞を裏返した。朝食のテーブルに痰壺を出されちゃ堪らない。近頃の写真からは消えたようだが。 昭和十一年(一九三六)に小学校に入った私が上海へ三度行ったのはその前、一九三四年か五年頃である。母方の叔父が向こうで商売していた。上海神社で挙げた彼の結婚式にも連なった。 私の上海の記憶は、何よりもテカテカに光る電信柱である。どれもこれも肩よりやや低い部分が燦然と輝いていた。「触りなさんな」と、祖母が厳しく注意した。

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