戦争は「類型」の殺し合い

執筆者:徳岡孝夫2004年7月号

 牛丼の吉野家が、輸入牛肉のストックが切れたので、メニューから牛丼を外した。すると全国に展開しているチェーンの中のただ一店で、たった一人の客が「なぜ牛丼を出さないのか」と暴れ、何かを壊すか人を殴るかした。その記事は、小さくではあったが、すべての新聞に出た。 マス・メディアとは、そういうふうに現実を伝えるものである。本日から牛丼はありませんと聞いて温和しく帰った人、別の物を注文した人のことは一行も出ない。メディアによる現実の歪曲か? いや、簡単にそうだと言えない。あったことの報道は易く、なかったことの報道は至難の業だからである。 牛肉輸出国アメリカは、日本の動きを注視している。私は調べていないが、「肉切れ」に伴う吉野家の小事件も、通信社が流して向こうの新聞に出たはずだ。私はミズーリかカンザスあたりの畜産農家の居間で、一人の青年が新聞を読んでいる場面を想像する。「へぇー日本人、よっぽど牛肉に飢えてるらしいよ」と、彼は言い、短い記事を読み上げる。 暖炉のそばのロッキングチェアにかけていた祖父が、聞いてふと「日本人はバターン死の行進というヒドイこともやった」とポツリ呟く。戦中のフィリピンで、米比軍の捕虜を炎天下に長い道を歩かせ、多数の死傷者を出した、日本軍の「前科」である。

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