日系ブラジル人に「涙」で共感したのならば

執筆者:大野ゆり子2004年11月号

 サンパウロを訪れたのは数年前の十一月の末だった。南半球では夏が始まり、熱帯特有の空気が、薄いヴェールのように肌にねっとりとまつわりついてきた。日本人街を通りかかったのは、ちょうど昼時を回っていた。 街はどこか昭和三十年代を思わせた。横文字が主流になった今の日本では見られない「○○旅行社」「××荘」といった漢字の看板が、いくつも並んでいる。私は「○○定食屋」の暖簾をくぐって天ぷらうどんを注文した。扇風機が左右に首を振りながら揚げ物の匂いを運んでくる。畳に座った多くの客は、日本からの衛星放送のテレビを見ながら、黙ってそばをすすっていた。畳の床には、日本語の雑誌や新聞が手持ち無沙汰な客用に、乱雑に置かれている。 その中にガリ版刷りの同人誌があった。日系一世、二世の随筆や短歌などを集めた数ページほどのものだ。ブラジル日系移民の歴史は、一九〇八年の笠戸丸に始まるから、一世は、八十から九十歳の間ぐらい、二世が六十代から七十代だろうか。 素人の投稿を集めたこの同人誌の俳句や随筆は、あまりにも美しい日本語で綴られていた。それは技巧がうまいとか、凝っているという表面上のことではなく、日本語を書くことで日本人たろうとする情念が凝縮し、それが行間に溢れ出てくるような文章だった。

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