出張した一月下旬のパリには寒波が襲っていた。テレビをつけても、新聞を広げても、アウシュビッツ強制収容所がナチス・ドイツから解放されて六十周年(一月二十七日)の話題で持ちきりだった。 第二次大戦中、フランスからは数十万人のユダヤ人が強制収容所に送られた。それはドイツ軍占領地域だけでなく、対独宥和のビシー政権支配下においても例外ではなく、ユダヤ人狩りでフランス官憲はドイツ軍に積極的に加担した。ユダヤ人抑圧はアウシュビッツを最初に解放したソ連にも、収容所が置かれたポーランドにも言える。バチカンにしても時のローマ法王はナチスに妥協的だったと、いまなお批判されている。 米英も欧州大陸から逃れてくるユダヤ人に門戸を閉ざし、ユダヤ人団体の民族抹殺の警鐘に耳を貸さなかった。結果として約六百万人のユダヤ人が虐殺された。どの国もナチスの被害者でありながら、加害者でもあった事実から逃れられない。 二十七日、雪が降りしきるアウシュビッツで追悼式典がもたれ、元収容者や遺族ら一万人のほか、欧米など四十四カ国の首脳が参加した。 主催は強制収容所を抱えるポーランドのクワシニエフスキ大統領、アウシュビッツを解放したソ連軍を代表してプーチン露大統領、戦勝国のシラク仏大統領、ブレア英首相、米国のチェイニー副大統領。ユダヤ人を代表してイスラエルのカツァブ大統領。加害国ドイツを代表してケーラー大統領も招かれた。

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