行動の遅れは有望な電池事業などまでダメにしかねない。にもかかわらず、社員も金融機関も身動きが取れず――。「金融機関や投資家から信任が得られなかった」。三月二十八日、三洋電機の創業者(井植歳男)の孫にあたる井植敏雅は、四月一日付で社長を辞任することを表明した。会見では「以降は取締役として残る」とも語ったが、それも六月末の株主総会まで。その後は特別顧問に退く。創業から六十年。井植家による経営は終わりを告げた。 四十分にわたる会見での敏雅の主張は二点に要約できる。一つは「自分なりに三洋の構造改革を実行してきた。その方法は正しかったはずなのに、メーンバンク(三井住友銀行)と大株主(米ゴールドマン・サックス証券と大和証券SMBC)から理解が得られなかった」というもの。もう一つは「マスコミに内部情報が漏れすぎた。それが(再建を果たせない段階での)辞任の一因となった」。結局、自らの経営責任については触れず仕舞い。「敏雅君らしいな」。会見を聞いていた三洋OBは皮肉を込めてそう呟いた。 三洋は二〇〇六年三月期決算で二千億円を超える最終赤字を計上。その際に不良化した資産はすべて処理したため、〇七年三月期は最終黒字になるはずだった。営業利益の予想は六百五十億円。「巨額損失計上の翌期に下方修正があってはならない」(三井住友銀幹部)という理由から低めに設定したハードルだったにもかかわらず、実際には携帯電話事業とデジタルカメラ事業の不振から営業利益は低めのハードルにすら届かない三百五十億円にとどまり、最終損益は黒字どころか五百億円の赤字になる見通しだ。

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