エベレスト越え聖火とは 愚行どこまで?

執筆者:徳岡孝夫2007年11月号

 市川崑の「東京オリンピック」もいい映画だったが、戦前少年の胸に残るのはヒトラーの恋人レニ・リーフェンシュタールが撮った「民族の祭典」である。一九三六年ベルリン五輪の記録映画で、いまの若者が見ても、民族主義者になって映画館から出てくることだろう。 来年の北京オリンピックも、一大感動巨篇になるはずである。ここに北京あって天下に君臨す! 大革命、大躍進、大虐殺と何にでも大を付けるmegalomania(誇張癖)の国だから、映画も中華帝国の偉大さに嬉し涙がこぼれるものに違いない。 だが私が期して待つのは感動的な開会式ではなく、その前すなわち聖火リレーである。 先日の山火事で類焼しそうになったペロポネソス半島の旧跡オリンピアで採火された聖火は、世界の五大陸を二万人余がリレーして走る。分火してあちこち回るわけだが、その一つがヒマラヤを越す。 どこで越す? 中国人の考えることだから、エベレスト(八八四八メートル)の頂上で越す。ネパールの走者から漢民族の走者へと手渡される。全世界全人類必見の劇的瞬間である。 一九五三年にエドモンド・ヒラリーとテンジンが初登頂するまで、頂上直下のサウス・コルは「死の匂いがする」といわれた。いまじゃ世界最高峰登頂は、旅行代理店のビジネスになった。聖火を右手に掲げた走者は、無酸素でタッタッタッと南面を登ってくる。

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