『湛山回想』石橋湛山著毎日新聞社 1951年刊(現在は岩波文庫版のみ入手可能) 一九五六年十二月二十三日に総理大臣に就任した石橋湛山は数日後、『中央公論』編集部の嶋中鵬二(後年の中央公論社社長)のインタヴューを受けた。「いかがですか、総理大臣のなり心地は……」との嶋中の冒頭の問いに、湛山は答えた。「悪くないね。どこへ行ってもチヤホヤされるよ。総理大臣三日やったらやめられないって聞いていたが、なるほどそういう面もあるよ。自分の考えている政策を遂行しようなんて思わなければ、これほどいい商売はないよ」(『中公』、昭和三十二年二月号)。 嶋中の父と親しかったこともあり、丹前姿の湛山は屈託がなかった。嶋中の印象では「石橋さんはまた馬鹿にお元気」だった。ところが、総理就任から一カ月余で湛山は病に伏し、在任二カ月で二月二十三日、本人の意志で石橋内閣は総辞職。予算審議に出席不能だからという潔い辞任理由に世間は感嘆した。それは今日まで語り草になっている。回復後の湛山は、物議を醸しながら中ソを訪問するなど元気な歳月を送り、一九七三年に八十八歳で世を去った。 その書名よりして、多くの人が本書は首相引退後の湛山の著述と思うだろう。が、そうではない。『湛山回想』は最初、毎日新聞社から一九五一年秋に出た。なぜそんなに早く出たか。敗戦後に文筆から政治の世界に転じて第一次吉田茂内閣で蔵相に就任した湛山は、四七年五月、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)パージで四年余の公職追放時代を送る。この時期の産物が本書だ。だから政界復帰以降についての回想はない。本書には他に二種の異本がある。七二年完結の『石橋湛山全集』の第十五巻(最終巻)収録のものと、岩波文庫版(八五年初版)とだ。三種の異本には、いわば共通の「底本」がある。

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