まことの弱法師(32)

執筆者:徳岡孝夫2019年3月10日

 登録した講義を2つか3つ覗いただけで「アメリカの大学教育は」と偉そうなことを言うつもりはない。しかし講義が始まり、実際に教授と顔を合わせて、これは日本とは本質的に違うなと感じずにはいられなかった。

 言論の自由について、いきなり学生の意見を聞く。雑誌に記事を投稿させる。それはただ実際的教育であるだけでなく、学生に自分の力でジャーナリズム批判も含めて考えさせる講義だった。

 私が日本で受けたのは旧制大学文学部英文科の授業だが、そこには自分で考える余裕がほとんどなかった。教授の知識を分け与えられて英文学を理解するのが教育の目的であり、学生はそれ以上を求められなかった。

 民俗学の巨人、柳田國男は教室で学生が「先生それは違います」と発言するようにならなければ日本の学問の進歩はないと書いている。日本の教育の大部分は江戸期の寺子屋で子ノタマワクとやっていた時代から進歩していない。師が教え若者はそれを覚える、その繰り返しである。

 日本の学問は少なくとも理科系では多少の進歩はした。ノーベル賞を取れるところまでいった。だが文科系の「ものの考え方」は教授の教えたことの順繰り伝達、祖述である。アメリカの大学にもヤル気のない学生はいる。そういうのは見捨てておいて教授も学生も先へ先へ進む。進む意欲の中から新しい理論も生まれるのだろう。

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