灼熱――評伝「藤原あき」の生涯(46)

執筆者:佐野美和2019年5月2日
若き日の藤原義江。撮影年不詳だが、撮影者は第2次世界大戦時、米日系人収容所で隠し持っていたレンズでカメラを作り、密かに収容所で暮らす日系人を撮影していたことで知られる写真家の宮武東洋(下関市「藤原義江記念館」提供、以下同)

 大正14(1925)年3月22日。社団法人「東京放送局」(JOAK、後の『NHK』)から日本で初めてのラジオ放送がついに始まった。

 京田武男アナウンサーによる第一声「あーあー、聞こえますか? JOAK、JOAK……こちらは東京放送局であります。こんにち只今より放送を開始いたします」

 あまり聞こえない放送だったようだが、そもそもラジオという高価な機械を持っている人もまだわずかなので、関係者以外は耳にしていない。

 それから半年後の大正15(1926)年8月31日に、藤原義江は初めてのラジオ出演を果たす。

 あきはこの日のために、父親の遺産の一部をあて購入しておいたラジオを、因幡町(京橋)の宮下眼科でそっと聞いた。

 午後の落語が終わると、義江の登場だ。番組名は「テノール独唱」、伴奏は山田耕作。『からたちの花』『しばの折戸の』『かへろかかへろ』『沖のかもめに』。

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