ありし日の対馬勝雄中尉(波多江さん提供)

   1936(昭和11)年が明けた。「昭和維新」を叫ぶ青年将校らは相澤三郎中佐事件の公判闘争、天皇機関説問題をめぐって活動を激化させていた。不穏な状況は、深く関わる青森出身の対馬勝雄陸軍中尉のいる豊橋教導学校をも巻き込み、勝雄に否応のない行動を迫った。そして運命の2月26日が訪れる。

新教育総監への反発

「謹賀新年 年頭所感 大君に仇なす仇はますらをが 国の内外を問はずうちなむ 大君の仇をうたずに迎えたる 年の初めぞ 心苦しき」

 士官候補生が集う豊橋教導学校の教官、歩兵学生隊第一中隊の区隊長として3年目の昭和11年正月を迎えた勝雄の賀状だ。悶々と苦しむような、思案すれど動けぬ身のもどかしさを語る文面。勝雄は易を独学し、「邦刀」という号を選び、「筮竹をひねって運勢を見てくれた」という学校の同僚の回想がある。だが自らの行く手を占うことはできず、懊悩のさなかにいた。

 勝雄は前年(1935年)の12月14日、青年将校らから最大の理解者、昭和維新運動の庇護者と仰がれた陸軍「皇道派」の真崎甚三郎大将邸に参上する。『真崎甚三郎日記』は伝える。

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