高等弁務官を表敬訪問する沖縄教職員会の屋良朝苗=1965年 1月 5日(沖縄県公文書館所蔵)

 

復帰運動の担い手になった教職員会

 1952年5月、屋良朝苗が沖縄教職員会会長に就任し早速取り組んだのが、戦災校舎の復興であった。そして校舎復興に向けて、「戦争で壊滅した沖縄の校舎を国が責任をもって復興することは、きわめて当然な筋道」という考えから、日本政府と日本国民に訴えようとした。

 さらには、校舎復興の運動によって、日本国民の沖縄への関心を高めると同時に、日本本土からの支援を通して沖縄と日本本土を結び付けることで、沖縄の日本復帰に取り組もうとしたのである。

 こうして教職員会は、復帰運動も推進し、53年1月には「沖縄諸島祖国復帰期成会」が結成され、屋良が会長に就任した。

 その直後の1月20日から、校舎復興と沖縄の実情を日本全国に訴えるため、屋良は教職員会事務次長の喜屋武真栄を伴って上京する。そして全国の教職員や児童、生徒、教員の団体、各政党、日本政府関係者、各知事などに訴えた。

 6月中旬に娘の病気で帰郷することになったが、54年4月までに1000万人もの児童、生徒の協力を得て、6312万円もの募金が集まった。もっとも、この募金は、米軍当局の介入もあり、校舎復旧ではなく、文具などに使用されることになる。ところが、復帰運動が順調に進んでいるかに思えた矢先、屋良を衝撃が襲う。

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