渡米を辞退しようとする金子賢太郎(右)を、伊藤博文(左)は必死に説得した 写真出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」 (https://www.ndl.go.jp/portrait/)

 慶應義塾の塾長を長く務め、中興の祖と言われた小泉信三は、先の大戦に反対だった。しかし、戦争になったら、全力で国を支えようとした。それが国民としての義務だと思ったからだ。それゆえ、先の大戦で学生たちを戦場に送ったと批判された。政治の掌にあらずとも、国に殉じようとした人がいたのである。まして政治のリーダーには誰よりも、ノーブレス・オブリージュ(高い身分には義務が伴う)が求められる。日露戦争時の日本にはそうしたリーダーが数多くいたことを、吉村昭『ポーツマスの旗』(新潮文庫)が教えてくれる。

「勇敢に誠実に自国の為めに戦はねばならぬ」

 戦争への賛否はどうであれ、避けられなくなったとき、国民としてどう対応すべきか。1946年、連合国軍総司令部(GHQ)の指令によって全国の諸学校職員に対する適格審査が行われた。その際、小泉信三が提出した弁明書には、苦悩の中にも確固とした信念が見える。小泉は「此戦ひに対して冷淡なりしことを強調して自ら護らんとするもの」を「陋」「卑怯」と呼び、自分はそのような立場を取らないことを明らかにし、開戦に至る最終の瞬間まで平和に恋々としつつ、「開戦を妨げるためには寸毫の効果ある実行をも為し得なかった」「省みて懺悔に堪へず、今之を記しつゝ深き苦痛を感ずる」と書いている。そして戦中の言動については、荒天に出港した船にたとえて次のように説明した。

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