宮澤は「エリツィンは安定的なリーダーではない」と考えていた[東京サミットでの首脳会談を前にエリツィン大統領(左)を出迎える宮澤喜一首相=1993年7月8日、首相官邸](C)時事

 年末恒例の外務省の外交文書公開が2023年12月20日に行われ、今回は1992年を中心に、宮澤喜一内閣時代の外交文書約6500ページが解禁された

 文書公開は1万ページを超えることもあるが、今回はやや少なめで、日米首脳交渉や天皇訪中をめぐる日中関係が中心だった。筆者が関心のあったソ連崩壊直後の日露関係は、一切公開されなかった。組織防衛に走る外務省は、自らに不都合な文書を解禁しなかったかにみえる。

 しかし、日米・日中間のやりとりで、北方領土交渉をめぐる意外な事実も判明した。そこから、日本外交の致命的欠陥が見えてくる。

北方領土交渉の記録は非開示

 戦後79年を経て振り返ると、北方領土問題を日本に有利な形で解決する千載一遇のチャンスは、1992年の一時期だけだった。新生ロシアのボリス・エリツィン大統領(以下、肩書は当時)はスターリン外交を否定し、「北方領土問題を必ず解決する」と表明していた。92年の日本の国内総生産(GDP)は世界の16%を占め、IMF(国際通貨基金)の統計では、ロシアの55倍。筆者は当時、記者としてモスクワにいたが、ロシア社会には、最先端の先進国・日本の援助を受けられるなら、領土割譲は仕方がないという雰囲気さえあった。

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