第4回 スターリン 帝国の育成者(後編)

執筆者:池田嘉郎2024年4月28日
向かって左からモロトフ、スターリン、ヴォロシーロフ(1937年、Wikimedia Commons)

3. スターリンの新しい帝国

レーニンの死

 1922年4月23日、レーニンの不調を解消すべく、原因と目された銃弾の摘出手術が行なわれた(1918年8月末に撃ち込まれたもの)。恐らくはこれがかえって災いし、5月27日に彼は発作を起こした。10月2日には仕事に復帰したが、調子はしばしば崩れ、その都度療養先であるモスクワ郊外のゴルキに戻った。12月15日には自身で書くことができなくなり、翌日にかけての晩に右半身が一時麻痺した。ついで23日にかけての晩に右手・右足の本格的な麻痺が起こった。その後もなお、妻クループスカヤや秘書を通じて断続的に口述を行なった。1923年3月6日を最後に、レーニンは一切の仕事の能力を喪失した1

 レーニンの病気が悪くなっていくこの時期は、諸共和国の統合が問題となった時期でもあった。赤軍による征服の結果、ソヴィエト・ロシア、正式にはロシア・ソヴィエト連邦社会主義共和国(RSFSR)を取り巻く形で、ウクライナやジョージアといったソヴィエト社会主義共和国が成立した。形式上はこれらの国は独立していたが、その政治を担う共産党(たとえばジョージア共産党)は、モスクワの中央委員会に従属していた。それゆえモスクワの側が諸共和国の統合を議題とするのは時間の問題であった。1922年8月に検討委員会が設置され、スターリンが中心的な役割を果たした。彼はウクライナやジョージアなどを自治共和国にしてRSFSRに編入する構想を出した。いわゆる「自治化案」である。現状ではタタール人のように自治共和国をもつ民族と、ウクライナ人のように共和国をもつ民族の間に差があったが、「自治化案」はこの点でより平等ではあった。

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