オーストラリアはなぜ「多民族国家」となったか

執筆者:竹田いさみ2009年11月号

 日一日と秋が深まっていく日本と正反対に、南半球のオーストラリアは早春を迎えようとしている。最大の都市シドニーでは冬の終わりを告げるかのように「赤砂」が吹き荒れた。中国の黄砂は日本でもお馴染みだが、オーストラリアでは内陸部の広大な砂漠から運ばれた赤い砂がシドニーの空を焦がした。 赤い砂や土で埋め尽くされた砂漠には、金、サファイア、鉄、石炭、レアメタル、ウラニウムなどが眠る。豊富な鉱物資源はオーストラリアを世界有数の豊かな国にしたが、赤い砂漠を掘ってきたのは移民労働者だった。 十九世紀に金鉱が発見されて以来、アジアやヨーロッパ大陸から大勢の労働者がオーストラリアにやって来た。一攫千金を夢見る人々の中には、オーストラリア政府にとって「好ましからざる者」も多数含まれていたため、移民対策は国家の政策の根幹をなすものだった。 オーストラリアの鉱山会社は金を採掘するために香港やアモイから大量の中国人労働者を呼び込んだ。すると、生命力が逞しい中国人の数はあっという間に増え、数の上で白人社会を凌駕するまでになる。言葉や生活習慣も異なる中国人がこのまま増え続けると自分たちの社会は崩壊してしまうとの危機感を、オーストラリアの白人たちは抱きはじめた。そこで政府は白豪政策を導入し、アジア人を片端から排除していくことになる。

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