沖縄普天間問題サミット前の二つの波乱要因

執筆者:飯塚恵子2000年1月号

名護市長選の行方と代替施設の建設工法・場所をめぐる論争

 沖縄県名護市――。東シナ海を望む市役所の上には今、今年七月の主要国首脳会議(沖縄サミット)参加国を象徴する八本の旗が、鮮やかにはためく。

「サミットの成功に向け、行政と市民団体が一丸となって努力してほしい」

 二〇〇〇年一月四日、岸本建男市長はこの市役所広場で、穏やかに年頭訓示をたれた。市長は、わずか八日前の十二月二十七日、自らが歴史的な決意表明を行った米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)の代替施設受け入れについては、一言も触れなかった。それがかえって、普天間問題の今後の課題の重さを示しているともいえそうだ。

 沖縄の米軍基地問題の象徴となっている普天間飛行場。その返還に伴う代替施設の建設候補地選定問題は、岸本市長が同市辺野古地区への受け入れを九九年の暮れギリギリに表明したことで、ひとまず「年内決着」した。

 政府はこれを受け、十二月二十八日、代替施設の建設地点を「(米軍)キャンプ・シュワブ水域内名護市辺野古沿岸域」とし、移設先に関わる大規模な振興策や、国と名護市による新たな基地使用協定の締結などを正式に閣議決定。普天間問題は、日米両政府の返還合意以来、三年八カ月ぶりに、ようやく「県内移設」への前進を遂げた。

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