〈一九六二年七月二十二日、私たち家族五人は、ムシ風呂のような暑さの日本を後に、いよいよオーストラリアへ向けて出発した。 通産省からシドニー領事として赴任する夫と、それに同行する妻の私と、三人の子供たちである。長男太郎は小学四年生、長女由紀子は小学二年生。ふたりともちょうど一学期を終えたところであった。そして、次男次郎はまだ二歳六か月〉 夫(後の通産審議官、天谷直弘、一九九四年死去)は別として、天谷きみこも子供たちも外国に行くのは初めて。飛行機に乗るのも初めてだった。 一つ、心に決めてきたことがあった。日本人の塊の中で暮らすことはすまい、オーストラリア人の中に溶け込んで生活しよう。 だが、「溶け込む」ということは生やさしいことではない。生活のささいな事一つ一つに対して原理的にものを考え、納得してから、それを摂取するということだからである。 例えば、日本では四年生だった太郎のこちらでの学年をどうするか。「そうだな。もう一度同じ学年をやらせてもらえばいいだろう。何歳で何年生になり、何年間学校に通い、それでもう勉強はおしまい、というのはおかしいと思うんだ」「そうね。勉強に期限はないのよね。早速、もう一度同じ学年をやらせてくださいって頼んでみましょう」

記事全文を印刷するには、会員登録が必要になります。