政治家一家の三代目に生まれ、祖父以来の地盤を継いで政界入りした小泉純一郎首相にも、人並みに苦労した時代がある。故福田赳夫元首相の下で現実政治のイロハを学んだ一九七〇年三月から二年半の書生時代だ。神奈川県横須賀市の自宅を早朝に出発し、東京・世田谷の福田邸に通う毎日。二十八歳の新入り書生に割り当てられた仕事は下足番だった。黙々と雑用をこなす「小泉家の御曹司」に福田は目を掛け、御曹司は福田に心酔した。福田の支援を受け、三十歳で初当選。以後も忠実な「福田の子分」として政治家人生を歩んできた。 良くも悪くも融通無碍な兄弟子の森喜朗前首相と違い、一本気な首相は「親分の敵は我が敵」と心得、福田の政敵・故田中角栄元首相の流れを汲む旧竹下―旧小渕―橋本派の面々と角突き合わせてきた。故竹下登元首相の全盛期、東京・代沢の竹下邸にはポストと情報を求めて各派の政治家が出入りしたが、首相は一度も「代沢詣で」に出向いていない。健全財政論も大蔵官僚出身の福田譲り。初当選以来、一貫して衆院大蔵委員会に所属し大蔵族の道を歩んだのも、福田に「理想の政治家」を見たからだ。 福田と首相在任日数(七百十四日)で肩を並べた四月九日は、その意味で首相にとって特別な日だった。「悔しかったね、あの時は。これだけ実績を積んで何で辞めなきゃなんないか、悔しい思いをしたのを思い出すよ」。首相はこの日夜、感想を求めた記者団に、男泣きに泣いた二十五年前の福田退陣劇の思い出を語り、「私は毎日が有事。(政権の余命は)天が決めること」と結んだ。「やれるところまでやり抜く。亡き師匠の分まで」の意気込みが、言外に滲み出ていた。

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