投稿者:アメリカの部屋2015年12月27日09時45分
武内です。

maruma さん、コメント(9月15日付)をいただき、ありがとうございました。

「自衛隊というのは、まず枠が填っているという点で他国にない特殊な軍隊ゆえに、いきなりネガティブ・リスト以外はOK となるとやはり自衛隊の場合はまずい」という見方はとても興味深く拝読しました。自衛隊は、その背負っている歴史を考えると、「自衛隊」という名前からもわかるように、やはり特殊な軍隊だと思います。

先進国30ヶ国ほどで「国民が軍隊を信頼している度合い」を国際比較した世論調査があります。それによると、国民が軍隊を信頼している度合いが最も低いのは、ドイツ、イタリア、日本の3ヵ国でした(ちなみに最も高いのはイスラエル、その次が米国)。国家が軍隊を自国民を抑圧するために用いた歴史があると、その後何世代にもわたって、軍隊に対する国民の信頼を確立するのが難しくなるわけです。

日本という国家と自衛隊という軍隊の背負っている歴史を踏まえて今年成立した安保法制を見てみると、すべての活動に国会承認を義務付けているというのは、画期的なことだといえるのではないでしょうか。もともと自衛隊の幹部は、何をするにも国会承認が必要なら仕事にならないといって難色を示したのですが、国会承認を得て海外での活動に従事するということは、つまり国民の支持を得て海外での活動に従事するということなのだということで納得してもらったという背景があります。

自衛隊が「何ができるか」を規定している安保法制は、その活動に「国会承認」という「枠」を填めているわけです。自衛隊をPKO などの海外活動に送るかどうかを決めるのも、集団的自衛権を実際に行使するかどうかを決めるのも、「国会」なのです。安保法制審議において肝心の安全保障を蚊帳の外に置いた国会議員にその覚悟があるのか問われているわけです。

(武内宏樹) 
e
投稿者:edo.kobayashi2016年06月29日17時43分
昨日(6/28)の投稿は自分でもわかりずらいと思いましたので、少し補足します。現時点での私の考える構成です。集団的自衛権に唯一の定義がないことを前提にすれば、適切な判定をするためには「どう定義するか」、「その中でどこまで実施するか」ということができるだけ明瞭になっている必要があると思います。また、適切な判定とは「効果(抑止力の度合)」と「憲法の趣旨を逸脱していないか」と考えられます。集団的自衛権については、NATOのような本格的なものは当然として、見方によっては日米安保の形も変則的で限定的な集団的自衛権となるのではとも思ったり、結構幅があると思っています。今、この定義がブラックボックスになっている状態ですが、自衛という本来の目的に限定すべきだと考えます。紛争地への対処は、国連が認定する事案についてのみ判断するという枠組みが望ましいです。また日本の領海外については、日米ではなく当該領海を保有する国が中心になるスキームをとるべきと考えています。
投稿者:アメリカの部屋2016年01月06日13時53分
武内です。

hitokoto さん、コメント(9月20日付)をいただき、ありがとうございました。

米国は南シナ海と東シナ海を一体としてとらえている節があります。沖縄とシンガポールの間に駐留基地をもっていないということで、日本にも南シナ海の防衛、特にご指摘のシーレーンの確保に、何らかの形で参加してほしいと考えていると思われます。(2015年9月2日付「日本は右傾化しているのか?」参照)

一方、日本にとっては東シナ海は日本の領海であるのに対して、南シナ海は違います。集団的自衛権が問題となる所以です。中国が今般の安保法制に懸念を示すのは、日本の領海ではない南シナ海での米軍の活動に自衛隊が参加するようになるのではないかと警戒しているからです。

1996年の台湾海峡危機で海軍力不足を思い知らされた中国は、一貫して台湾海峡での制空権の確保に軍事力増強の主眼を置いてきました。その結果、台湾海峡の制空権確保の目処が立つところまで来ました。

台湾海峡危機から2013年末のADIZ 設定に至るまで、米国は中国の軍事的影響力拡大の試みをことごとく跳ね返してきたといえますが、政治学者のロバート・ロス氏(ボストン・カレッジ教授)によれば、中国は「5年前にできなかったことができるようになった」ので、これからは「そう簡単にはいかないだろう」ということです。(2015年2月23日付「2015年の米中関係(下)『軸足移動』と日本の役割」参照)

米国は日本に対して、この難しい「中国への対応」を日本と一緒にやりたいので、そのための「知恵」を出してほしいと期待しているわけです。「個性をはぐくみ、調和を尊重する」ことで養われる「知恵」が求められているのです。(「日本は右傾化しているのか?」の12月31日付コメント参照)

(武内宏樹) 
e
投稿者:edo.kobayashi2016年01月07日13時48分
武内様

9月20日にご回答をいただいたあと、しばらく自問自答しているうちに年が明けてしまい失礼いたしました。
また、その間に非常に多くのやりとりがあったことを見て、安全保障というテーマの重要性をその数でも感じるところです。

さて、当時いただいたコメントの中に「海自と海保の関係で問題になるのは、米国が東シナ海と南シナ海の防衛を一体のものとして考えている点です。東シナ海は日本領海の防衛ですが、南シナ海は集団的自衛権が問題になります。」ということがありましたので、この点も考えておりました。説明力を持つためには、国際法および日本の憲法との整合性が必要です。その時に、例えば次のような体系では問題があるのでしょうか。
南シナ海において、国際法的に当該領海を有する国との間で、日米安保条約に基づく共同活動を行うことを認める条約等を結び、これを日米安保条約に基づく個別的自衛権の中の予防的措置として位置付ける(予防的措置なので、範囲的には偵察、あるいは攻撃された時の自衛程度か)。
考え方としては現状対応方法からの逆算方式ですが、集団的自衛権に至らずに効果を上げるやりかたとして考えました。日本の防衛対策は(憲法および日米安保条約があり)特殊である、という前提がつきます。
投稿者:アメリカの部屋2015年09月20日09時20分
武内です。

edo.kobayashi さん、コメントをいただき、ありがとうございました。

「本質論から議論するのであれば、東アジア情勢と国際協力体制から入っていくのがわかりやすいのではないか」という指摘は、9月2日付の論考(「日本は右傾化しているのか」)を書くときに参考にさせていただきました。周辺事態の整備に対応するための海上自衛隊と海上保安庁のシームレスな関係をどう構築するか、PKO をはじめとする海外での自衛隊の活動を支えてきた特措法に代わる法制をどう整備するかという課題を、国会でももっと議論すべきだったのでしょう。

海自と海保の関係で問題になるのは、米国が東シナ海と南シナ海の防衛を一体のものとして考えている点です。東シナ海は日本領海の防衛ですが、南シナ海は集団的自衛権が問題になります。

7月12日付の日本経済新聞「日曜に考える:世界の秩序づくり競う米中」で中国を代表する国際政治学者である時殷弘氏(中国人民大学教授)が日本と中国が戦争になるケースとして、日本が南シナ海と台湾の有事に介入した場合を挙げました。つまり、中国が集団的自衛権に反発しているのは、南シナ海の有事の際に日本が米国に加わることを警戒しているからなのです。

時氏によると、中国が南シナ海で岩礁埋め立てを強行したのは、米国の偵察活動を行えなくする、南沙諸島からフィリピンとベトナムを追い出す、(中国にとっての)シーレーンの安全を確保するという3つの理由だそうです。米国にとっては受け入れられるものではありません。

ただ、米国も中国と戦争をしたいとは思っていないので、対立をエスカレートさせない「知恵」を求めています。国際交渉の議論をまとめて問題を解決するという能力こそが、日本の安全保障に資する真の「国力」なのです。国会での議論の体たらくを見ていると悲観的にならざるをえませんが。

(武内宏樹) 
投稿者:アメリカの部屋2017年01月16日12時46分
武内です。

imomushi さん、コメント(2015年11月1日付)をいただき、ありがとうございました。

占い師じゃあるまいし、未来を予想することそのものは意味がありません。そうではなくて、以前の論考(2015年5月14日付「安倍訪米後の『新時代』日米関係(上)中国にどう対応するか」)でも述べたように、「未来は『複数形』」ととらえて、複数のシナリオに対してそれぞれどのような対応をしたらいいかと考えるのが肝要です。http://www.fsight.jp/articles/-/40077

トランプ政権発足を前にして、「複数形」の未来を考えることはとても大事なことです。たとえば、 何らかの理由で尖閣諸島の島の一つを中国の漁民が占拠したときに、トランプ政権が米軍を全く動かさないという決断をしたら、日本はどう対応すべきでしょうか。

駐留米軍の撤退といった極端な場合でなくても、日米同盟に対する信頼が崩れるきっかけはいろいろと考えられます。大事なことは、実際にそれが起こるかどうかを「予想」するよりも、もしそれが起こったらどうすべきかを考えることなのです。

それから、キャリアやフォード、トヨタへの圧力政策を通じてトランプ次期政権の保護主義的傾向がすでに露見していますが、様々な保護主義政策が実行に移されたときにどう対応すべきかと考えておくことも大事です。2014年7月23日付の論考(「アベノミクスと日本の『宿題』続・TPP の政治経済学」)で指摘したように、アジア太平洋では製造業の工程間分業が進んでいますから、2国間の貿易赤字のような時代遅れの指標に拘泥していては、貿易と雇用の関係を理解することはできません。http://www.fsight.jp/articles/-/40374

(武内宏樹) 
投稿者:アメリカの部屋2016年07月09日17時53分
武内です。

AprilHare さん、コメント(10月28日)をいただき、ありがとうございました。

5月3日付のコメントで述べたように、安保法制をめぐる議論が迷走しているのは賛成派の責任か、反対派の責任かなどという議論は愚の骨頂です。1月25日付のコメント絹谷幸二氏の話を紹介しましたが、「賛成・反対」の二元論に落とし込むような議論は、「原色追求」という「排外主義」(xenophobia)や人種差別(racism)とも共通の土台をもつ不寛容の精神につながってしまいます。つまり、不毛で無意味なだけではなく、健全な議論のためには有害なのです。

ところで、機雷掃海の話は、安倍首相が「ホルムズ海峡」を例として持ち出したので話がおかしくなってしまいましたが、実は今般の安保法制をめぐる議論ではとても大事な問題です。本来の論点は、自衛隊が公海上の機雷を掃海するのに集団的自衛権が必要になるというものです。

日本近海で、日本がシーレーンとして使っている公海上にどこかの国が機雷を置いたとします。自衛隊の機雷掃海技術は世界トップレベルなので、他の国々は日本の自衛隊が機雷掃海に乗り出してくれると期待するのではないでしょうか。

この場合、日本領海内に機雷が敷設されたわけではなく、また必ずしも日本攻撃の意図を持って敷設されたわけでもないので、自衛隊が掃海任務にあたるのは集団的自衛権の行使となります。大事なことは、集団的自衛権行使を容認すると表明することによって、「日本は問題解決に取り組む責任感のある国」だという「信頼」を日本が勝ち得るということです。

国際社会の信頼を得るというのは、日本の安全保障と国益にとって大事なことです。そして、日本の「意思」に説得力をもたせるのは、説得する側の日本の責任なのです。

(武内宏樹)
A
投稿者:AprilHare2016年07月09日19時33分
回答ありがとうございます。

公海への機雷敷設でどのようなケースを想定しているのかすら測りかねる(※)私としては、意見の隔たりは依然として大きいと思っていますが、丁寧にコメントを頂いたことには感謝申し上げます。

※中国による機雷敷設やそれの掃海ならば、中国の軍事的行動やそれへの軍事的対決であり、単なるお掃除や信頼の蓄積で判断できるほど小さな問題ではありません。
かといって、他の国による機雷敷設のケースは、思い当たりません。
投稿者:アメリカの部屋2016年09月20日12時43分
武内です。

マミタンさんはコメント(11月1日付)のなかで「大きな政策変更に伴う国内コンセンサス不在」を集団的自衛権に反対する理由に挙げていますが、今般の安保法制制定においては、政策変更をしないことに対する国内コンセンサスも存在しませんでした。というか、コンセンサスとは「全員一致」という意味ですから、コンセンサスができたときにしか政策の変更ができないのであれば、政策変更はまず不可能です。

現実の世界では、世論は多様で、いろいろなタイプの人がいろいろな考えをもっているので、人類社会は活性化するのです。コンセンサスではなく、法律を作ることによって政策変更を行うというのが民主主義の要諦です。

そもそも民主主義という「体制」(regime)の下には様々な、一見非民主的に見える「制度」(institution)がたくさんあります。たとえば、米国では上下両院535人全員が賛成しても大統領が拒否権を行使すれば法律になりませんし、英国のような完全小選挙区制の国では、選挙区で51%の支持を受けた議員の51%が賛成することで、国民の26%しか賛成していない法案が法律になることもありえます。

政治経済学の研究では、後にノーベル経済学賞を受賞するケネス・アロー氏(スタンフォード大学名誉教授)が1960年代初頭に「民主主義の下では政策決定が不可能である」ことを証明して衝撃をあたえました。ところが民主主義は実際に機能しているわけですから、その後政治学者による制度研究が進み、こうした一見非民主的に見える「制度」が民主主義の政策決定を機能させていることがわかってきました。

そうはいっても、現実には政策を変更しない方が政策変更よりも容易なので、「現状維持」の名の下に「問題の先送り」が選択される場合が多々あるのが現実です。ここに癒着と腐敗の温床となる「既得権益」が生まれるわけです。

(武内宏樹) 
投稿者:アメリカの部屋2016年01月23日11時30分
武内です。

sanma さん、コメント(9月28日付)をいただき、ありがとうございました。

「憲法を憲法専業スペシャリストから民衆に取り戻そう」などという大それた「心意気」があるわけではありませんが、憲法論議が憲法学者の既得権益と化している現状には憂慮しています。

憲法判断をする権限をもっているのは最高裁であって憲法学者ではありません。安保法制という法律を作る権限をもっているのが国会であって政治学者ではないというのと同じ理屈です。

そもそも、国際政治学者が「安保法制が必要」と言ったからといって安保法制という法律を作らなければいけないわけではないでしょう?それと同じことで、憲法学者が「安保法制は違憲」と言ったからといって安保法制が違憲であるという道理はありません。

以前のコメント(11月23日付)で、「『説明』というのは相手に理解してもらわなければ何の意味もありません。相手にわかるように説明するのが『説明責任』です」と述べました。憲法学者は、「安保法制は違憲」であるという点を相手にわかるように説明するのが第1の説明責任です。

その上で、憲法を守ってさえいれば安全保障が確保されるわけではありませんから、どのような安保法制が合憲でなおかつ安全保障を確保できるのかということを相手にわかるように説明するのが第2の説明責任です。憲法学者なのだから安全保障はどうでもいいというのは無責任な議論です。

歴史を振り返ると、デンマークやノルウェーは憲法を守っていましたがナチス・ドイツの侵略を止められませんでした。ポツダム宣言受諾のプロセスは厳密にいうと大日本帝国憲法に違反していますが、国の存続という究極の安全保障の目的には合致していたと言えるでしょう。

安全保障の確保をまず議論して、その上で合憲性を考えるというのがあえるというのがあるべき姿だと思われます。

(武内宏樹) 
n
投稿者:naka2016年01月23日23時08分
日本人は日本人の種の存続を第一に考えるべきです。その為の憲法であり法制でないといけないと思います。政治家が自分だけのメリットを優先させすぎなのではないかと憂鬱になります。

個の安全が約束され過ぎている現状が、種の存続を考えられない麻薬になっているのではと杞憂しています。

e
投稿者:edo.kobayashi2015年08月12日13時50分
この記事の中で疑問を持った部分があります。「安全保障というのは与野党の合意が比較的得られやすい問題」とありますが、それはその法案のレベルによって全く違うのではないかというのが私の感覚です。今回の法案の場合は、ややデフォルメしていえば、「抑止力(武力)の向上による安定構築か、武力は極めて小さい中で外交や国際交流による安定構築か」という永遠の難問につきあたるレベルのものだと思いますので、そう簡単に結論が出せるものではないのでは? 個人的には、周辺事態の整備と、PKO協力の検討から議論すべきだと考えています。
n
投稿者:naturalist2016年01月25日15時32分
すっかり忘れていましたが思い出しました。武内さんの説明はいつも懇切に行き届いており、納得がゆきます。そして人柄に良心を感じます。ありがとうございます。
n
投稿者:naturalist2015年10月04日21時11分
武内様
10月4日のimomushiさんへの答弁に関して:
私は以前仕事上日本人とフランス人の間で大変苦労したことを思い出しました。後年加藤周一セレクション5に日本社会文化の基本的特徴を読んで納得がゆきました。特徴としてここに3点ほど引用します。
1.競争的集団主義ーーー個人として責任をとることがない。外に対して閉鎖的ーーー外人、外国人とコミュニケーションがうまくいかないのは言葉の問題ではない。 2.世界観の比岸性と超越的価値の不在ーーーその時間軸への投影としての現世主義。 3.極端な形式主義(ハンコ)と極端な気持ち主義ーーー論理的思考と言葉によるコミュニケーションの軽視がその結果ではないかと私は思う。

和の精神の尊重は素晴らしいと思いますが、人は皆同じではないので、それぞれ自分の考えや思いを言葉に託して意見交換をして理解を促すなり妥協点を探すということになりましょうか。この際、開かれた態度と自己客観視が必要かと思われます。

投稿者:アメリカの部屋2016年05月31日11時12分
武内です。

前回のコメント(5月22日付)で、日米同盟をめぐる国際環境の変化について論じました。この点については、2014年9月29日付の論考(「『中東』『アジア』への『関与の度合い』に悩む米国」)で紹介したハル・ブランズ氏とバリー・ポーゼン氏の議論が参考になります。

2人の意見の相違をまとめたところを引用すると以下のようになります。

「ブランズ氏とポーゼン氏の間で見方が異なるところは、米軍の存在が同盟国にどのような影響をあたえるかという観点にある。ブランズ氏は、米軍の駐留が同盟国の安全保障に礎をあたえることで同盟関係が強化され、ひいては米国の安全保障にもプラスの影響をあたえると考える。一方ポーゼン氏は、米軍の駐留は同 盟国に『ただ乗り』のインセンティブをあたえるだけであり、米軍が撤退すれば同盟国の自助努力を促し、地域の安全保障確保には支障もなく、かつ米国の負担 が減るという意味でも米軍の撤退こそが米国の国益に適う『総合戦略』だと主張する」

詳しくは上述の論考を読み返していただきたいのですが、変化する国際環境のなかでの日米安保条約の役割・意義という問題を論じるにあたって、ニュアンスを踏まえた政策論議が必要だということがわかると思います。マミタンさんは10月27日付のコメントのなかで「安保法制に賛成か反対か」に焦点をあてていますが、「賛成・反対」の二元論に議論を落とし込んでいる限りはニュアンスを踏まえた政策議論などできるはずがありません。

米国では現在、ツイッターの普及による影響なのか、トランプ氏やサンダース氏のような140字以内で表現できるメッセージを発している候補者が選挙戦を有利に進めている一方、クリントン氏のような政策を正面から議論する候補者が苦戦しています。ニュアンスを踏まえない議論というのは民主主義にとっては有害なのです。

(武内宏樹) 
s
投稿者:sorciere M2015年08月14日14時52分
プロフェッサー武内のこの記事は、米国側から見た理論的見解に裏打ちされた、優れた論証と思います。

「民主主義の後退?」のパラグラフの中で、一つ質問があります。
パラグラフ最後に『「労働組合」対「ビジネス」という対立の図式から始まった議論であったが、経済を超えたTPP の意義を考慮することで議論が深まっていったという点において、米国議会の「決定力・実行力」も捨てたものではないといえよう。』の文章がありますが、この中で『経済を超えたTTPの意義』ということは、どんなことを指すのでしょうか。東南アジアでの、アメリカの政治的利権のことですか? 中国がその域の独裁者になるのを防ぐことと同時に。
具体例を挙げて教えて頂けるでしょうか。
n
投稿者:nekosuki2015年08月14日15時56分
アメリカという遠い彼方から日本で展開されている安保法制論議の様子を眺めたときに、どのように見えるのか、迷走、さもありなんと思っています。

日本での議論の中心テーマが拡散しつるあることは国内にいてはなかなか気づきにくいことですが、遠方から俯瞰してみると、より鮮明に映ることでしょう。

アメリカにとって日本は同盟国ですから合憲性という超えなければならない難しい問題はあるものの、集団的自衛権が両国の国益にかなうという点においては疑問の余地はないと考えることは頷けることです。その自明の理ともいうべき政策を前にして日本はなぜこうも揺れ動いくのか、日本が追求しようとしている国益は一体何なのか、という基本的な疑問に突き当たってしまうかも知れません。日本の側からはなかなか気づきにくいことですが。

これは根底に日米間における基本的認識の違いという深い根の問題が潜んでいるせいなのか、それとも日本政治における議論のスタイルに問題があって混迷しているだけのことなのか。いずれにしろアメリカからは、韓国とは別の意味で、同じ国益を追求するはずの同盟国の弱体化しつつある姿が見えてしまうのかも知れません。

この問題の根底には中国との関係をどのように考えていくのかという重大な問題があるのですが、このことにはあえて目を向けない日本の政治について、”アメリカの戦争に巻き込まれるのは御免だ、地球の裏側まで自衛隊を派遣することはとんでもないことだ”と野党が問題提起することにはある程度の理解を示しつつも、全体として眺めれば、迷走劇の一場面にしか見えないのだろうと想像しています。
h
投稿者:h.sas2015年10月11日10時24分
安保法制の議論を聞いたり読んだりしていて、どうも納得がいかないのは、議論の中で「国家」について語られることが少ないためだと思います。日本国家抜きの日本国憲法は有り得るか?国家安全保障のための法律と、日本国家の上に成り立つ憲法が衝突している。3階建ての構造物に例えると、1階=日本国家、2階=日本国憲法(平和憲法)、3階=安保法制で、3階は1階を守るためだと主張し、2階の住民である憲法学者は、3階が2階を否定していると主張している。
北にロシア、西に中国&北朝鮮と核爆弾とミサイルをセットで持っている国が近くにあり、韓国も信用できない。一方、同盟国は、はるか東にアメリカしかない。この状況を政府はもっと明確に言うべきと思いますが、中国に遠慮しているせいか、はっきり言わない。南の方は友好的な国がありますが、中国が人工島を造成して航空基地にしています。国家、憲法、法律を一体で考えるべく憲法改正の議論に向かうべきと思いますが、時間が掛り過ぎるので、取りあえず3階に期待するしかないでしょう。
平和憲法にどれほどの価値を認めるかは見解の幅が広すぎて纏まらないと思います。真に価値があると信じるならば、平和憲法普及協会を設立し、アラビア語と英語でパンフレットを作成して、アフガニスタン、イラク、シリア、リビアなどに普及活動に出かけたらどうでしょうか。ISISには行かない方がいいでしょうね。この憲法のおかげで日本は敗戦後70年で平和で豊かな国を作ることが出来たのですよ!と説いて回る。生きて帰れる保証はありませんが、平和憲法教の殉教者として永遠の命を得られる可能性があります。
e
投稿者:edo.kobayashi2015年08月18日10時15分
武内様
ご回答ありがとうございます。本記事内容に対する理解を深めることができました。
特に「国際政治におけるパワーというのは「能力」(capability)と「意思」(intention)の掛け合わせ」という構成は私にとって理解しやすかったです。
なお、私が「周辺事態の整備とPKO 協力から議論」と書いたのは、今の法案が「包括的」であるがゆえその論理構成がつかみずらいため、本質論から議論するのであれば、東アジア情勢と国際協力体制から入っていくのがわかりやすいのではないかと思ったからです。ここで深い議論ができていれば、範囲を広げた場合の妥当性レベルを議論しやすいのでは、という発想です。
投稿者:マミタン2015年09月03日01時29分
執筆者様

残りの投稿に対する、当方からのコメントが遅くなり申し訳ございません。執筆者様から興味深いコメントを頂いておりますので、私なりの補足をさせていただきます。

執筆者様は【「執筆者の記事の前提は、①日本は現状維持で最も利益を得る、②日本と米国の国益は完全に一致とまで言わないが基本的に同じ、③日本が採用し得る国家戦略は米国へのバンドワゴン戦略、以上3点を前提としていると思われる」との指摘ですが、記事ではそのような前提を置いているという事実はありません。また、記事からなぜこのような前提を置いていると結論付けるのか論理的説明もなく、言いがかりのような指摘です。】とコメントしています。

私の認識では、日本国の現在の暗黙的な国家安全保障戦略は①~③を基礎としていると認識しています。執筆者様のこれまでのフォーサイトにおける記事を読むと、現状の日本の国家安全保障を考える上で、常識的・保守的な論調であったことから、執筆者様の安全保障観は、①~③の類型に当てはまると理解しているという意味をもって、上記コメントをしたところです。ところが、執筆者様から、「記事ではそのような前提を置いているという事実はありません。」「言いがかりのような指摘です」との指摘を受け、正直、面食らったという感じです。そこで、cinii及びGoogle Scholarで執筆者様の安全保障に関する論文を探して見たのですが、私の検索能力が乏しいため、執筆者様の安全保障観がわかる論文には行き着くことができませんでした。
浅学非才の私は、①~③が日本国の安全保障戦略の基盤をなすと考えておりますが、執筆者様の認識は違うとのこと。今後、フォーサイト及び執筆者様の論文をもって日本国の安全保障の基底にあるものを見極めていけたらなと思います。
あと105件のコメントがあります