日本の首相で饗宴外交の真髄に最も通じていたのは誰だろう。食事や、それに付随するエンターテインメント、儀礼といったものに明るく、それらが首脳外交において決して小さくない役割を演じることを知っている、という意味でだが、私は故小渕恵三首相をおいて他にいないと思う。
 饗宴内容やそのとり運びについて、ほとんどの首相は秘書官任せだ。しかし小渕首相は、メニュー内容、招待者選び、席次など、細部まで自分で確認し、指示を出した。コの字型の配置だった首相官邸のテーブルを「堅苦しくない形に」と、長方形のメインテーブルと、幾つもの小ぶりな丸テーブルの組み合わせにさせたのも同首相だった。
 2000年に日本が主催したG8サミット(主要国首脳会議)の開催地を沖縄と決めたのも同首相で、饗宴という点で最も成功したサミットでもあった。残念ながら同首相はサミットを前に急死。本番は森喜朗首相がホスト役を務めたが、すばらしい饗宴に感激したフランスのシラク大統領は、シェルパの野上義二・外務審議官(当時)にレジオン・ドヌール勲章を贈った。

早とちりが招いたハプニング

首脳会談に臨むクリントン大統領と小渕首相(c)時事
首脳会談に臨むクリントン大統領と小渕首相(c)時事

 最近、小渕首相の下でクリントン米大統領(当時)の訪日準備にあたった外務省の鶴岡公二・北米課長(当時、現・国際法局長)が、外務省職員向けの会報でこれまで知られていなかった舞台裏のハプニングを明かした。  クリントン大統領は1998年11月に訪日した。小渕首相は自ら準備にあたり、迎賓館で130人の大晩餐会を開くことを決定。招待者選定では当時米国でも評判の映画「Shall we ダンス?」監督の周防正行氏と、主演女優の草刈民代氏を加えさせた。  また「大統領に盆栽を見てもらいたい」と蝦夷松を置くように指示した。日本盆栽協会と懇意の首相は、北方4島の択捉島を原産とする樹齢100年を越える蝦夷松を米大統領に見せることで、北方領土返還に米国の支援を促す狙いだった。ここで鶴岡氏は大きなミスを犯す。蝦夷松を置く場を、晩餐会翌日に持たれる首脳会談と早とちりしたのだ。  晩餐会当日、30分前に会場入りした小渕首相は、準備状況を点検すると「蝦夷松はどうなっているのだ」と聞いた。鶴岡氏はこの時はじめて、首相が蝦夷松を晩餐会場に飾るべく考えていたのだと気がついた。盆栽は翌日の首脳会談に合わせ、早朝に盆栽協会の埼玉支部から車で運び込む手はずになっていた。  鶴岡氏は「いま手配しております」と、とっさに口から出任せを言った。晩餐会の前に大統領、首相が招待客と歓談するレセプションがあり、今から手配しても間に合うと踏んだのだ。幸い協会の埼玉支部と連絡がつき、協会幹部がワゴン車に盆栽を積んで出発した。ところが思わぬ事態になった。米大統領訪日のため東京に入る幹線道路は検問が敷かれ、大渋滞していた。しかも当時は携帯電話も普及しておらず、協会幹部がどこにいるかも分からない。  迎賓館では食前酒のレセプションが終わり、晩餐会場に招待者を案内する時間になった。しかし盆栽は到着しない。司会進行役の鶴岡氏は首相の歓迎スピーチの通訳をしながら「車は東京に入っただろうか」と気が気ではなかった。

記事全文を印刷するには、会員登録が必要になります。