北東アジア地域の古典的領土問題

執筆者:2012年8月23日

 C・V・クラウゼヴィッツの『戦争論』は、戦争の正当性を言い、「戦争を仕掛けることの後ろめたさ」を「政治の延長である戦争」という概念で払拭して、戦争好きの為政者を後押しした。アメリカ合衆国は、その建国にあたって、「マニフェスト・デステニィー」、すなわち「この大陸は神が我々に与え給うた大地」であることを宣し、先住民殺戮の正当性を謳った。それらは、テロや暴力まがいのデモンストレーションを正当化した「活動家好みの理屈」に似ている。日本では、これを「盗人にも三分の理」と言い、不法侵入してきた犯人に熨斗を付けて返すのは、「盗人に追い銭」と言う。

 クラウゼヴィッツは、「絶対的戦争」を説いて、戦争は、「物理的な強制力をもって敵に自らの意思を強制すること」、換言すれば、「軍事力をもって敵の殲滅を目指すこと」とした。中国の軍人である喬良と王湘穂が著した『超限戦』は、『戦争論』をさらに今日的正当性へと拡大解釈した、中国の「物理的な力による主権・国益拡張の正当化」である。韓国の「竹島占領」は、学際的な理屈は別として、「力ずく」の行為を正当化することにおいて、『戦争論』や『超限戦』と同義である。

 現在、中国をはじめとして、領土問題を物理的な力で片付けようとする行為が、北東アジア地域から南シナ海にかけて顕現化しており、それは「力ずくでも奪ってしまう古典的正義」であって、キリスト教国が「神の名において戦争を正当化」した現象と変わりない。絶対主義的リーダーシップと扇動や洗脳を伴うポピュリズムとが、併せて絶頂期を迎えると、ヒトラーやスターリンが神にとって代わってしまう。相手になっている側、あるいはやられる側にとって、このような迷惑を正義とは認めがたい。

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