1983年9月1日、ニューヨーク発ソウル行き大韓航空007便のジャンボ機がサハリン上空で旧ソ連軍戦闘機に撃墜され、乗客・乗員269人(うち日本人27人)全員が死亡した、あの事件から来年でちょうど30年になる。

 大韓航空機がソ連領空を侵犯したのは単なる「航法ミス」だったのか、それとも「オトリの偵察」が目的だったのか――東西冷戦のさなかに起きた怪事件の真相は今なお解明されたとは言い難い。

 

「新事実」はKGBトップの議事録から

 1983年9月9日、アエロフロート機の不定期便乗り入れ制限など対ソ制裁措置を決めた大韓航空機事件関係閣僚会議。右から安倍晋太郎外相、中曽根康弘首相、後藤田正晴官房長官、谷川和穂防衛庁長官 (C)時事
1983年9月9日、アエロフロート機の不定期便乗り入れ制限など対ソ制裁措置を決めた大韓航空機事件関係閣僚会議。右から安倍晋太郎外相、中曽根康弘首相、後藤田正晴官房長官、谷川和穂防衛庁長官 (C)時事

 しかし、このほど米ウィルソン・センターの「冷戦国際歴史プロジェクト」(CWIHP)が得た文書から新事実が明るみに出た。文書は、当時のソ連国家保安委員会(KGB)と東ドイツ国家保安省(STASI)のトップ同士の議事録。

 米国内の旧ソ連スパイとみられる人物が、大韓機が「偵察」のオトリに使われた経緯に関する米情報をKGBに寄せていた、と当時のKGB副議長が語った、というのだ。

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