あたかも「スポーツ界の天皇」のごとく振る舞い続けた人物。アテネ五輪の脚光が“最後の花火”だったかのように、影響力に陰りがみえ出した。「選手たちの活躍は国民に夢と希望、深い感銘を与えた」 九月一日、日本オリンピック委員会(JOC)が東京都港区の高輪プリンスホテルで開いたアテネ五輪日本代表選手団の解団式。まず、こう言って選手や関係者の労をねぎらったのは、名誉会長の堤義明だった。金メダル十六個という輝かしい成績を反映して多くの取材陣が詰めかけたが、式典の様子にクビをかしげる向きが少なくなかった。組織の長であるはずの会長の竹田恒和は、堤の挨拶の後に登場して大会報告を淡々と行なう役回り。その後、主将の井上康生と旗手を務めた浜口京子が竹田に選手団旗を返還したが、竹田を経て団旗は重々しく堤に手渡された。この時、一連のセレモニーの主が堤であることを誰もが理解した。「JOCのトップは竹田会長ではなく、今でも堤さん。式典などに出席するとイヤでも思い知らされる」 五輪選手協賛CMなどに熱心な大手飲料メーカーの幹部はこんな指摘をする。 一九九〇年五月、堤はJOC会長の職を辞した。直接の辞任理由は札幌アジア冬季大会での国歌取り違えなどについての引責だったが、当時誘致活動が佳境に入っていた長野冬季五輪のスキーコース新設問題などに自らが率いる西武グループが絡み、「公私混同」との批判を浴びたことなどが背景にあった。自分に対する風当たりの強さに堤は辟易していた。

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