かつては”東洋のジブラルタル"と呼ばれた旧「恵通橋」付近をトーチカの銃眼から望む(2012年5月、筆者撮影。以下同)
かつては”東洋のジブラルタル"と呼ばれた旧「恵通橋」付近をトーチカの銃眼から望む(2012年5月、筆者撮影。以下同)

 前回から少々間があいたが、この旅も国境の街を辿って内陸部に戻り、すでに芒市から龍陵に入っている。引き続き、日中戦争当時の日本軍の行軍を振り返ってみる。

 当初、日本軍は拉孟一帯の山々の頂の要所を押さえ、“東洋のジブラルタル"と呼ばれた恵通橋までの滇緬公路を制圧し、連合国による陸路からの蔣介石援助ルート遮断に成功した。

 だが地上戦ではともかくも、航空戦で日本は遅れをとってしまう。アメリカ主導の連合軍は中国、ビルマ、インドをCBI戦域として包括的に捉え、在インド英空軍、AVG(フライング・タイガー)、CBI派遣米空軍、再建過程にあった中国空軍、さらにはCACW(中米混合空軍団)などを置き、これら航空部隊の統合的運用を目指す。アメリカは最新鋭のP-40戦闘機を投入する一方、陸上主体の補給を断念し、「ハンプ越え」と呼んだインド東部からヒマラヤを越える空路による援蔣ルートを切り開き、大型輸送機を使った物資の大量輸送に重点を移した。

 かくて1944年に入るや、空軍の支援を受けた米式重慶軍は怒江(サルウィン河)を渡河し、西岸に橋頭堡を築き、西に向かって進撃した。日本軍の防衛ラインを突破し、西南方向に、つまりミャンマー国境に向かって日本軍を押し戻す。

記事全文を印刷するには、会員登録が必要になります。