“熱帯への進軍”最前線を歩く(7) 広くビルトインされた「華人」という変数

執筆者:樋泉克夫 2013年8月6日
エリア: アジア
 かつては”東洋のジブラルタル"と呼ばれた旧「恵通橋」付近をトーチカの銃眼から望む(2012年5月、筆者撮影。以下同)
かつては”東洋のジブラルタル"と呼ばれた旧「恵通橋」付近をトーチカの銃眼から望む(2012年5月、筆者撮影。以下同)

 前回から少々間があいたが、この旅も国境の街を辿って内陸部に戻り、すでに芒市から龍陵に入っている。引き続き、日中戦争当時の日本軍の行軍を振り返ってみる。

 当初、日本軍は拉孟一帯の山々の頂の要所を押さえ、“東洋のジブラルタル"と呼ばれた恵通橋までの滇緬公路を制圧し、連合国による陸路からの蔣介石援助ルート遮断に成功した。

 だが地上戦ではともかくも、航空戦で日本は遅れをとってしまう。アメリカ主導の連合軍は中国、ビルマ、インドをCBI戦域として包括的に捉え、在インド英空軍、AVG(フライング・タイガー)、CBI派遣米空軍、再建過程にあった中国空軍、さらにはCACW(中米混合空軍団)などを置き、これら航空部隊の統合的運用を目指す。アメリカは最新鋭のP-40戦闘機を投入する一方、陸上主体の補給を断念し、「ハンプ越え」と呼んだインド東部からヒマラヤを越える空路による援蔣ルートを切り開き、大型輸送機を使った物資の大量輸送に重点を移した。

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執筆者プロフィール
樋泉克夫(ひいずみかつお) 愛知県立大学名誉教授。1947年生れ。香港中文大学新亜研究所、中央大学大学院博士課程を経て、外務省専門調査員として在タイ日本大使館勤務(83―85年、88―92年)。98年から愛知県立大学教授を務め、2011年から2017年4月まで愛知大学教授。『「死体」が語る中国文化』(新潮選書)のほか、華僑・華人論、京劇史に関する著書・論文多数。
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