緊急時と平時の狭間で復興を模索する珠洲市

執筆者:草生亜紀子 2025年12月30日
タグ: 日本 災害
2025年12月撮影

 元日の能登半島を襲った最大震度7の大地震からまもなく2年。地震から8カ月後の9月には集中豪雨が能登地方にさらなる打撃を与えた。サラリーマンを卒業してから始めた国際人道支援NGOピースウィンズの「見習い」として、過疎化と高齢化が急速に進むなかで復興の道を模索する能登半島の北東端、石川県珠洲市の現場を見てきた。

 珠洲市の北側、日本海沿いを車で走ると、元の海岸線のはるか先まで広がる岩場に白い線が見える。数千年に一度とされる海岸の隆起で海底が露出した結果、海底にあった海藻などが乾燥して白い線のように見えている。この大規模な隆起によって石川県の面積は広がり、福井県と順位が逆転したほどの地殻変動だった。この広がった海岸線の上に仮設道路が敷設され、土砂崩れで塞がった道では今も補修工事が続く。

2025年12月撮影

 集中豪雨から1年3カ月を経た珠洲市では、町なかの倒壊した建物や瓦礫置き場は片付いて、道路の補修は進んでいる。ただ、解体された家や建物の跡には敷地を囲むブロックだけが残されてまるで遺跡のような様相を呈し、応急処置された道路はパッチワークのようで段差が多く、大型車がたてる音が激しいために「減速 段差音大きい」の看板が至るところに立っている。中心部から少し離れると、地滑りで流れた家や車は手付かずのまま残され、飛び出したマンホールが放置されているところもある。先に述べた隆起で広がった海岸沿いでは、崩れてきた土砂を支えるワイヤーネットはギリギリのところで土を支え、ふたたび豪雨に見舞われたら決壊は避けられないように見えた。

2025年12月撮影

 2年近くを経て、珠洲市はまだ深い傷を露呈している。1995年の阪神・淡路大震災の時は、翌年には神戸の街が驚くほどの賑わいを取り戻していたのとは全く違う光景があった。人口が多く活発な経済活動がある都市と過疎化・高齢化が進む地方の小さな町との差なのだろうが、すでに総人口の3分の1が65歳以上の高齢者である現在の日本では、むしろ珠洲市のほうが先行例となるだろう。珠洲が今取り組んでいる問題は、この先、日本の地方自治体が災害にあった時に直面する課題でもある。

道路各所にこの看板がある

制度の締め切りが迫る中で見え始める「声を上げない人」

三上豊子さん

「もうすぐ震災から2年で、入居期間に制限のある『みなし仮設(民間賃貸アパートや住宅を自治体が借り上げて提供する制度)』で暮らす人への支援をどうするかとか、制度からこぼれ落ちる人の相談が増えています」と語るのは、珠洲市令和6年能登半島地震復旧・復興本部健康サポート推進室室長の三上(さんじょう)豊子さん。「災害の後、珠洲市から離れて暮らしている人の様子を把握しきれなかったのですが、制度の締め切りが迫る中で、こうした人たちからの相談も増えています。気が滅入りがちな冬のせいもあるかもしれませんが、心の病気を訴える人も出てきています。行政としては、市内の仮設住宅で暮らす被災者はもちろん、市外で暮らす被災者の伴走もしなければと思いますが、難しい問題も多々あります」。

 地震発生時、珠洲市の人口は1万1720人だったが、2025年夏の時点では9952人(石川県統計)と、15%以上の人口流出が続き、65歳以上の老年人口の割合は54.1%と全国平均よりもはるかに高い。市の調査から子どもの26%が市外に引っ越したこともわかっている。子どもが減っているということは働き盛りである親の流出も意味する。

 震災発生3日後からずっと珠洲市に駐在して支援活動を続ける橋本笙子ピースウィンズ珠洲代表は「地震と豪雨によって珠洲の過疎化と高齢化が10年速く進んだ」と語る。

 過疎化と高齢化が急激に進むなかで、現在必要とされる支援は、有事の災害復興支援なのか平時の福祉なのか、境目のはっきりしない狭間の問題になりつつある。

 三上さんはこう語る。「今増えているのは、除雪の相談やエアコンが壊れているといった相談。また、行政だけで解決が難しいのが、たとえば仮設住宅で猫をたくさん飼っていて世話しきれなくなった家庭の問題。同じ仮設のみなさんやNGO、ボランティアの助けを受けて対処したケースもありますが、まだすべてを解決しきれてはいません。行政ができないこと、やったことのないこと、行政には難しいことがたくさんあります。震災前の私だったらそれらに対応するのは『違うんじゃないか』と思いました。でもこの2年を経て、NGOやボランティアの人々の動き方を見ていて、相手の立場に立って、その人が大切にしていることに寄り添っていかなければ何も解決しないことがわかったので、今は珠洲市全体でそういうスタンスで取り組んでいます」。

地元の人々からも行政からも頼りにされる橋本さん

 橋本さんもこう語る。「つくづく思うのは、生きる選択は本人のもの、ということ。はたからみれば『こうしたらいいのに』と思うことがあっても、どう生きていきたいかは本人が選ぶことなんです」。そう考えるようになったきっかけのひとつは、豪雨のあと救出にいった高齢女性との出会いだった。道路が閉鎖されて孤立した集落に、ヘリコプターで迎えに行った。するとこの女性は「このヘリはどこに行きますか?」と聞く。「珠洲市内です」と答えると納得して乗ってくれたが、後から聞くと行き先が市外だったらヘリには乗らなかったと言う。地震のあと、しばらく金沢の親族の家で暮らしたが珠洲に帰りたかったと。女性が望んだのは快適さや便利さよりも何よりも地元で暮らすことだった。「避難所の隅っこでもいいから、珠洲におらせてほしい」。女性はそう言ったそうだ。

 この高齢女性は、おそらくこの先難しい選択を迫られることになる。海岸の家はしっかりした構造で地震の被害を免れた。しかし、目の前の山は地震と豪雨で大きく崩れて今も補修工事中だ。次の災害でまた崩れないという保障はない。道路は開通したものの、近隣の家はすでに解体されており、もしも女性が仮設住宅を出て自宅に戻ることを決意するなら、海辺にポツンと一軒残った家でひとり暮らさなければならない。車を運転しない高齢女性がひとりで暮らすのは現実的ではない。多くの家屋が撤去され空き地が広がる珠洲市内では、こうした「ポツンと一軒」の家に暮らす独居老人が増えている。こうなると、災害復興支援というよりも、平時の福祉の管轄に入ってくるが、労働人口が減るなかで福祉サービスを担う人も設備も足りていないのが現状だ。

地震で形が変わってしまった見附島

 現在、珠洲市では復興公営住宅をどこに建設するのかを検討中で、2026年早々にまずは20箇所程度で建設に着手するという。住民の希望に寄り添いながら、小規模な公営住宅を分散して作っていく。地震のあと倒壊家屋の解体がなかなか進まなかった背景には持ち主が不明だったり遠隔地に住んでいるといった問題があり、公営住宅の用地買収にも時間と労力がかかることは予想されるが、三上さんは「新しいモノの建設が決まれば未来が見えて希望につながります。完成までの間、気持ちを前向きに保ってもらえるよう私たち行政は考えなくてはいけません。珠洲から気持ちが離れないように」と語る。

 同時に、(建築家・坂茂さんが設計し、2025年のグッドデザイン賞を受賞した)見附島木造仮設住宅のような木造仮設を移住者が借りられるようにするなど、外からの人口流入を促進する施策も検討中だという。

 三上さんは語る。「震災から2年経っても、自宅で暮らす人々から聞き取り調査をしていくと、まだ4割程度の人々が将来を決めかねて、悩んでいることがわかります。私たちも焦らず、迷っている人たちに寄り添っていこうと思っています」。

 国連食糧農業機関(FAO)の世界農業遺産に認定された豊かな土地である「能登の里山里海」の暮らしをどうやって守っていくのか、模索は続いている。

空から見た珠洲市
カテゴリ: 社会
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執筆者プロフィール
草生亜紀子(くさおいあきこ) 翻訳・文筆業。NGO職員。産経新聞、The Japan Times記者を経て、新潮社入社。『フォーサイト』『考える人』編集部などを経て、現職。
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