天皇の装束を担う「衣紋道」とは 維新後も京都に残った公家の生存戦略

執筆者:徳永勇樹 2026年1月3日
タグ: 日本 歴史
宮中の男性の正装である束帯とその装身具一式(以下、写真はすべて山科言親氏提供)
Culpedia代表・徳永勇樹氏が、幾度もの危機を乗り越えた老舗の代表者に生き残りの秘訣を聞く。今回インタビューした山科言親氏は、南北朝時代から令和の現在まで皇室の衣装を担当してきた「衣紋道」の家元の跡継ぎだ。
 

山科言親(やましなときちか)

衣紋道山科流若宗家。1995年京都市生まれ。代々宮中の衣装である“装束”の調進・着装を伝承する旧公家山科家30代後嗣。歴史番組の風俗考証等も行い、蹴鞠や雅楽など御所文化の伝承普及活動に携わる。近年は装束の復元製作や古文書の解読にも取り組む。

天皇が生涯に2回しか着ない衣装

徳永 山科家の成り立ちについてご説明をお願いします。 

山科 山科家は藤原北家の流れを汲む公家です。私は初代の山科(藤原)実教から30代目、中臣鎌足から数えて45代目になります。苗字の由来となった山科の地は京都の玄関口に位置し、「伏見と山科は京都を守る両翼」と呼ばれ、人や物が行き交う要所でした。

 衣紋道は、宮中で着られる装束に関する知識や技術を伝える道です。山科家は南北朝時代から内蔵寮という朝廷の財産管理を担う役所の長官、内蔵頭を世襲するようになり、天皇の装束を取り扱う仕事も任されました。

徳永 山科家は、明治維新の時も京都に残る選択をしました。

山科 あの時代、京都にとどまる選択は非常に重いものでした。当家には「京都去りがたし」という言葉が残されています。文化の基盤が京都にあるという自覚や、「天皇の留守を預かる」という意識があったのでしょう。明治維新で公家の半分ほどが東京へ移動しました。

 その後も政治経済の中心が東京に移るにつれて京都を離れた家は多く、昭和初期には、かつて138家あった堂上家(御所清涼殿に昇殿を許された公家)のうち、京都に残るのは26家だけになっていました。さらに戦後は十数家ほどに減っていった。地縁・血縁が次第に希薄になり、そうした絆によって守られていた文化や慣習も、次第に廃れていきました。

 東京へ移れば新しい屋敷が与えられ、官職にも就ける。実利を考えれば明治期には東京行きが得策に見えたかもしれません。ですが、大正期の関東大震災や昭和期の東京大空襲で、貴重な資料や物品を失った公家も多くありました。結果論ではありますが、山科家は京都に残る決断をしたことで、文化的な断絶を避けることができました。

京都にかつてあった華族会館分館にて衣紋を行う様子を写した大正期の古写真

徳永 最近では令和の即位礼や、悠仁さまの成年式がありました。そうした儀式にも山科家の方が関わっているのですか?

山科 はい、令和元年の即位礼では、広く報道された10月の即位礼正殿の儀以外にも、大小様々な儀式がありまして、その都度必要な装束が異なりました。中には、陛下が生涯に2回だけしか着られない装束も担当致しました。

徳永 生涯2回ですか。

山科 陛下が神宮や天皇陵に使いを送られる「勅使発遣の儀」と呼ばれる行事が5月と11月の2回あり、即位礼と大嘗祭の期日のご報告などが行われます。この際の装束は、山科家と高倉家の2家の家元で分担しましたが、現陛下がこの装束をお召しになるのは今回だけです。

昭和御大典の大嘗祭に奉仕した山科家26代、言綏氏が小忌衣を着用した姿 拡大画像表示

徳永 そうなると装束の種類も着装のパターンも物凄い量になりそうですね。

山科 その通りです。しかし、使われなくなったために着せ方がわからなくなったものも多いです。近代以降、多くの伝統的技法や様式が失われ、宮中行事も新しい生活スタイルの影響を受けるようになります。結果、現在“装束”と呼ばれて制作されているものは、江戸時代以前に存在した膨大な装束の体系のうち、ごく一部にすぎません。

徳永 新しい生活スタイルの影響という点では、確かに陛下は普段スーツ姿が多いようにお見受けします。儀式の場面でも、和と洋が混在している場面があるのではないでしょうか?

山科 例えば乗り物に乗る時も、自動車のように横からスライドして入る動線と、昔の牛車のように後ろから乗って前に降りる動線や所作は根本的に違います。現代皇室では伝統的な装束のお姿で馬車などにお乗りになることもあります。

 また、襖や障子と違って洋間の扉にはドアノブがあるので、袖口などが引っ掛かってビリッと破れることもある。実際、令和の大嘗祭の準備の際にそういうことが起きました。その時に痛感したのは、「衣服だけを継承して守ろうとしても駄目だ」ということです。建物や生活空間と密接に関わるからこそ成立する。

 ハレの場に関わらせて頂く機会があることは大きな励みでもありますが、例えば陛下の御即位のタイミングには周期性がありませんので、次が30年後かもしれないし60年後かもしれない。いつ訪れるかわからない儀礼に備えて技術を磨き続けるというのは、修行に近い側面があります。

牛車についての仕様を記録した絵巻「車絵図」

徳永 衣食住が現代化する中、伝統的な「衣」を伝える仕事の役割はどこにあるとお考えですか?

山科 単に「着飾らせる」だけだと捉えるとコスプレのように見えるかもしれませんが、祭や儀式における装束は、空間・年齢・季節・格式など様々な要素が重なりあって総合的に表象されるものですから、担当者にとっては「着せて終わり」ではありません。式次第の全体を理解するだけでなく、その場に終始居合わせ、不測の事態が起こって衣服が乱れれば即座に直す必要もあります。その意味では儀式全体を統括する役割とも言えます。衣紋道は総合的な学問で、有職(ゆうそく)故実という知識体系において中心的役割を担っています。

芸は身を助ける――政治権力との付き合い方

徳永 歴史の話に戻りますが、山科家のように長い間続いてきた公家は、時の政治権力とどのように付き合ってきたのでしょうか。

山科 藤原定家が書き残した『明月記』という日記の中に、「紅旗征戎、吾が事に非ず」という有名な言葉があります。「錦の御旗を掲げて外敵と戦うのは、自分の仕事ではない」という意味ですが、広い意味では「政治の表舞台には深入りしない」とも取れます。定家卿を先祖に持つ冷泉家の方は、「そのおかげで家が続いてきたのではないか」と仰っています。

 ただ、現実には、権力者との関係は重要です。例えば、当家の初代・山科実教は妹が平重盛にの妻で平家とも姻戚関係でした。その後も代々、足利将軍家、織田家、豊臣家、徳川家などの権力者とそれなりに良い関係を保ってきました。悪く言えば日和見主義的かもしれないけれど、時流を読む力とも言えます。ある程度は権力の中に入っていかないと、簡単に淘汰されてしまいますから。山科家も南北朝時代に北朝方と南朝方に分家しましたが、南朝側の系統は絶えてしまいました。

徳永 何か具体的なエピソードなどはありますか。

山科 室町幕府の六代将軍の足利義教はたいへん気性が激しかったそうで、当時の当主・山科教豊は、義教ににらまれないよう、初代の実教から代々通字としてきた「教」の字を避けて「家豊」に改名しました。また、織田信長とは非常に親しくしており、新しい所領をもらった他、信長が旧二条城を訪問した際は山科家に立ち寄ったという記録があります。そうなると、朝廷側からも「信長とパイプがある」ということで重宝されるわけですね。一方で、信長が延暦寺を焼き討ちした時には、日記で批判をしています。

徳永 権力者と信頼関係を築く秘訣があったのでしょうか。

山科 やはり芸事が役に立っていたようです。初代の実教は後鳥羽院の笛の師匠を務めたという記録が残っていて、当家では後白河院から賜った楽器を代々大切に保管していました。また、足利将軍家は雅楽の「笙(しょう)」という楽器を非常に重要視していて、「将軍たる者、笙を奏でるべきだ」という考え方がありました。笙の演奏を通じた交流が、将軍家との関係を築く上で大きな意味を持っていたようです。

 徳川家康との関係では、学術顧問的な立ち位置で徳川家の系図を編纂する作業に関わったようです。一緒に囲碁を指しながら朝廷や豊臣家の動向について情報交換し、家康が朝廷に参内する際の装束についても相談を受けたそうです。

徳永 まさに「芸は身を助ける」ですね。現代のサラリーマンがゴルフを習うのにも通ずるでしょうか。そういえば、ロシアのボリス・エリツィン元大統領はテニスが好きで、テニスのコーチを側近に登用したという話もあります。私も商社マン時代にカラオケの一発芸を夜な夜な練習したことを思い出しました(笑)。

山科 情報の扱い方という意味では、公家も商社マンと近いかもしれません。朝廷内部の情報には当然精通していましたし、徳川家にとって豊臣側の動向は、今でいう特ダネでした。

御所とその周りを囲んでいた公家屋敷について記された慶應3年版の古地図 拡大画像表示

500年間続いてきた山科家日記

徳永 さきほどから「こういう記録が残っている」とお話しくださっていますが、山科家には代々の当主が書き継いできた日記があるそうですね。

山科 はい。現存する山科家の日記は、足利義満の時代の14世紀後半から19世紀の後半まで、約500年分です。それ以前の日記は、残念ながら蔵が焼失して残っていません。

 旧家に残されたものというと、美術品などのほうが一般には関心を集めやすい。市場に出せば値段もつきます。しかし、それらは必ずしもその家になければならないものでもありません。「何を一番残すべきか」と問われたら、やっぱり古文書や日記のような記録のほうが、圧倒的に大事だと思います。

徳永 和紙と墨は情報の保存に適しているという話も聞きました。火事になった時は、池に書物を放り込んだとか。

山科 実際に御所でそうした対応があったようです。書物をいったん水に沈めて避難させ、後で引き上げて乾かしたという記録があります。蔵についても面白い話があって、火災のあと焼け残った蔵をすぐに開けると、一気に酸素が入って中のものが燃えてしまうことがありました。だから、密閉状態のまましばらく置いて、余熱が完全に抜けてから開けるという習慣もありました。

 江戸時代の天明の大火でも、「火の手が上がった」という報せが届いた段階で、重要な記録類を優先的に搬出したそうです。そういう努力の積み重ねで、日本には千年以上昔の紙の史料も残っています。あらためて紙文化の偉大さに驚かされます。

山科言継氏筆 和歌懐紙 拡大画像表示

徳永 現代は情報を記録する手段が身近になって、かえって「残すこと」への情熱が薄くなっているかもしれませんね。

山科 たしかに動画やSNSなど様々な表現方法がありますが、「後世に何をどう残すか」を意識しないと、意外と何も残らないと思います。現代の記録媒体も、電気がなければ読めない、ハードが変わったら再生できない、パスワードがわからなければ中身にアクセスできないといった危うさがあります。

徳永 今年はVHSなどのビデオテープが経年劣化で寿命を迎える「2025年問題」が話題になりました。私もインスタグラムを使っていますが、Metaがインスタグラムというサービスを終了させたら、そこに載せた文も写真も一緒に消えますね。

山科 ちょっとしたメモ書きが、意外と後世にとっては大事な情報だったりすることもあります。当家の日記がよく研究者に読まれている理由も、そこにあると思います。今日何を食べた、誰と会った、どこに行った、といった「日常の記録」がたくさん残っているんですね。それが役に立つかどうかは、記録した時点ではわからない。中には、「これは本当なら残すべきではない」「焼き捨ててほしい」と明確に書かれているものもあります。でもこうした情報にこそ、時代の空気や人間のリアルが詰まっている。

徳永 インスタグラムのアカウントが死後に公開される感じでしょうか。ちゃんと考えて投稿したものならともかく、24時間で消える「ストーリー機能」で投稿したものを復元して見られたらちょっと嫌ですね(笑)。でも後世の人からしたら、「いやいや、このストーリーのくだらなさが面白い」となる可能性もあるわけで。

「アーカイブ」に「実践」が伴うことで伝統が継承される

徳永 衣紋道にも代々引き継がれたマニュアルのような文書があるのですか。

山科 いわゆる教本のようなものができたのは明治時代に入ってからです。あまり言語化されてこなかった着装の手順や作法を、図解や文章にしてまとめた教科書を作りました。

 最近、冠の後ろにつく纓(えい)の巻き方に関する当家の記録を読んだのですが、江戸時代の初め頃に、「以前は違う巻き方をしていたのではないか」と周囲から指摘されたことがあったようです。それに対して、「いや、これは○○年に我が祖先がこういった意図で変更したもので、今はこのやり方が正しいとされている」と答えているのです。勝手に変えたと言われないように、説明可能なかたちで伝えているわけです。

 有職というのは、ただの形式主義ではなくて、事例(ケーススタディ)の集積です。ほとんど法解釈に近い。法律家も条文に明記されていないことは、過去の判例や原則に照らして判断する。同じ形式を踏襲しているようで、実は常に意味を考え続けている。

徳永 近代以降、「このプロセスを踏めば、誰でも一定レベルに到達できる」という再現性が重視されるようになりました。

山科 その意味で明治時代は転換点でした。ただし、教本をそのままなぞるのではなく、時代ごとの背景や伝える人のセンスによって、微妙に変わってきた部分もあります。そこに新しさが生まれる。

 それに、教科書があっても、実際にやってみないとわかりません。やってみて初めて、「ああ、これはそういうことだったのか」と気づくことも多い。伝統の継承には、アーカイブと実践の両輪が必要です。何かあった時に立ち返れるよう記録を残しておくことは大事だけれど、記録さえあれば文化が残るわけではない。

徳永 素敵なお話をありがとうございました。

カテゴリ: カルチャー
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執筆者プロフィール
徳永勇樹(とくながゆうき) 食客/東京大学先端研創発戦略研究オープンラボ(ROLES)連携研究員。1990年7月生まれ。早稲田大学政治経済学部卒。英語・ロシア語通訳、ロシア国営放送局スプートニクのアナウンサーを経て、2015年三井物産株式会社入社。4年半の鉄鋼製品海外事業開発、2年間のイスラエル留学を経て、社内シンクタンク株式会社三井物産戦略研究所にて政治経済の分析業務に従事。商社時代に担当した国は計100か国以上 。2024年7月末に退職しプロの食客になる。株式会社住地ゴルフでは、一切の業務が免除、勤務地・勤務時間自由という条件のもと、日本と世界の文化研究に専念する。G7及びG20首脳会議の公式付属会議であるY7/Y20にも参加。2016年Y7伊勢志摩サミット日本代表、2019年Y20大阪サミット議長(議題: 環境と経済)、Y7広島サミット特使を務めた。新潮社、ダイヤモンド社、文芸春秋社、講談社、The Mainichiなどで記事を執筆。2023年、言語通訳者に留まらず、異文化間の交流を実現する「価値観の通訳者」になるべくCulpediaを立ち上げた。
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