佐土原人形「ますや」七代目は「目入れ」を通して先人と語らう

執筆者:徳永勇樹 2025年6月22日
タグ: 日本 人手不足
佐土原人形を代表する饅頭喰い人形(以下、写真はすべて下西美和氏提供)
江戸時代から独自に発展してきた宮崎の佐土原人形は、土地の誇りとして地元の人々に親しまれてきた。しかし、少子化や家の間取りの変化、後継者不足などで、いまや人形作りを続ける会社は1軒を残すのみ。その会社を継いだのは、実は「ただ郷土玩具を集めるのが趣味なだけ」だったという元博物館職員の下西美和氏だ。
 

下西美和 佐土原人形ますや七代目。1979年生まれ。六代目阪本兼次氏・由美子氏に師事。2018年10月に佐土原人形店ますや、佐土原人形製作所七代目を名乗ることを許される。2019年4月調印式にて全てを受け継ぐ。佐土原人形の制作や歴史の調査、同定作業、地域の学校との連携に携わる。

京文化と朝鮮文化の影響

徳永 佐土原人形と会社の歴史を教えて下さい。

下西 佐土原(さどわら)は宮崎県の宮崎市北部にある街で、江戸時代は佐土原藩三万石の城下町でした。佐土原藩主・島津以久(もちひさ)が京都で亡くなり、菩提寺が京都にあったこともあり、佐土原と京都との間には深いつながりがあったそうです。その名残から、京都のように碁盤の目状に通りがあります。大阪方面との船の行き来があったことで、文化の流入も多かったためか、佐土原歌舞伎が生まれるなど、人の暮らしに文化がとても近い場所です。

 土人形づくりが盛んになったのは大蔵永常の『広益国産考』の影響が大きいとされます。同書は、農家の副業、農閑期に収入を補うための指南書のようなものでした。この書物の中で京都の伏見人形の制作の様子が絵や図を使って紹介されています。実際に佐土原の人形師が本を手にしていたかどうかはわかりませんが、伏見人形が佐土原の人々の目に触れていたのではないかと私は考えています。

 ただ、佐土原人形が伏見人形の複製品とは言えないと思います。全国には伏見人形を模して「孫型」と呼ばれるものが多く出回りましたが、佐土原ではそういった型は残っていません。私は、南九州独自のルーツ、具体的には、朝鮮半島からの影響があったのではないかと見ています。

 弊社創業家の阪本家は、当初は造り酒屋を営んでいたようですが、その後人形作りを始めました。人形作りを始めた正確な時期はわかっていませんが、裏付けのある最古の記録が1811年だったそうで、今年で少なくとも214年の歴史があります。人形の型が代々受け継がれていて、当代のみが口承で技術を受け継ぐことになっています。

ますやでは200年以上前から佐土原人形づくりを受け継いできた

徳永 佐土原人形の中でも、代表的な饅頭喰い人形について教えて下さい。

下西 饅頭喰い人形とは、子供が両親のどちらが好きかと問われたときに、饅頭を二つに割って「どちらがおいしいか」と逆質問をした賢い子供の逸話に基づいた郷土玩具です。饅頭喰い人形は全国に普及していますが、佐土原では弊社三代目・阪本兵三郎が、男の子の人形を女の子の姿に変え、女の子の饅頭喰い人形が代表的になっています。

 今では性別で分けるのはよくないという考えもありますが、当時人形遊びをするのは主に女の子だったので、女の子の饅頭喰い人形が作られたようです。阪本家が人形屋でなければ、今残っている佐土原人形の姿はまったく違ったかもしれないと考えると、歴史は面白いなと思います。

趣味の郷土玩具収集から作り手に

徳永 作り手の目線で饅頭喰い人形の魅力はどこにあるのでしょうか? 

下西氏は佐土原人形の独特の可愛らしさに惹かれ人形職人の道を選んだ

下西 見た目で言えば、例えば、「どうやったらこういう形になるのだろう」と不思議に思うような、でもとても愛らしくて惹かれる独特の髪型を挙げたいと思います。また、この人形に歴史の繋がりを感じます。今自分が手にしているその人形に、ずっと続いてきた誰かの手の感触や想いが込められている。うまく伝えられませんが、私にとっては、饅頭喰い人形はとても大切で、深い意味を持つ存在です。見ているだけでも、なんだか幸せな気持ちになれる。だから、私が好きなこの人形を、もっと多くの人にも知ってほしい、手に取ってほしいと思います。

 実は私自身は、阪本家の人間ではなく、ただ郷土玩具を集めるのが趣味なだけの博物館職員でした。ある日、当時勤務していた宮崎県総合博物館にて先代が講座を開かれて、そのご縁で阪本家に関わるようになり技術を学びました。色あせて傷んだ古い人形が放つ、言葉にできない空気感に惹かれるとともに、佐土原人形が非常に儚く、いつ消えてもおかしくないという危機感を持ちました。

徳永 以前お話を伺ったとき、新しいモチーフは作らないと仰っていた記憶があります。とはいえ、伝統を守るだけでなく、時に何かしらの創意や工夫を加える必要もあるのかなと思います。

下西 基本的には、新しいデザインは作らないという姿勢は変えていません。というのも、私はまだ佐土原人形のすべてを理解できていないという感覚があって、自分が新作に取り組むのは少し恐れ多いというか、遠慮があります。ただ、まったく作らない訳でもなく、例えば宮崎県に関わりのあるテーマの場合は、気持ちが動くこともあります。実際に依頼主と会って話して、その熱意に共感したときに、「これは佐土原人形として形にしてもいいな」と思えるときがあります。

 例えば、宮崎県のシンボルキャラクター「みやざき犬」というのがありますが、そのキャラクターをモチーフにした人形を作ったことがあります。また、ある会社さんと、宮崎県と、学生さんたちと一緒に、天照大神(アマテラスオオミカミ)をモチーフにした名刺立て用の人形を制作しました。その時は、学生さんや行政の方の熱意が強くて、その思いに共感して形になったものでした。ただ、こういう新しい取り組みは、本当にご縁があってこそのもので、自分ひとりで思いついて「よし作ろう」とやるものではないですね。また、そうした新規の作品は、制作に時間がかかるうえに、その間は他の仕事ができず収入も止まってしまうので、頻繁にはできません。

目の描き直しはしない

徳永 制作工程の詳細について、特に熟練の技術が必要な部分があればお聞かせください。

下西 難しい部分は沢山ありますが、今の時期ですと粘土づくりです。これは天候に左右される工程で、前日に粘土の水分量を調整しても、翌日急に暑くなると、粘土が乾燥してひび割れてしまいます。特に最近の宮崎は5月でも夏のような暑さになります。粘土の状態を見極めるのが非常に難しい季節です。それ以上に難しく、熟練を要するのが目入れです。

徳永 目入れというのは、どの点が難しいのでしょうか?

下西 佐土原人形の目入れは、その代を名乗る者にしか許されていない工程です。ですので、目を見れば「これは何代目の人形だ」とわかるようになっています。私は先代から、何年もかけて1対1で目入れだけを徹底的に教わりました。筆の動かし方にも順番があって、それを守らないと綺麗な目になりません。

 目を描くときは失敗が許されません。一度描いて「これはだめだ」となっても、描き直しはしません。もし明らかに失敗してしまった場合は、その人形は商品としては出さず、色見本として手元に残します。筆をゆっくり動かすと筆先がガタつくので、一気に集中して描きます。目入れを行う日はほかの仕事は一切せず、環境も整えて、集中できる状態にして臨みます。歌舞伎の場面を再現した「組人形」では、複数の人形で視線を合わせる必要もあります。お互いが目線を送り合っているように感じられる仕上がりが、佐土原人形の高い評価につながっている技術のひとつです。

徳永 目が描けたかどうかは、ご自身の中でどのように判断されていますか?

下西 私は「可愛いかどうか」で判断しています。自分が可愛いと思えない人形は、基本的にお店には並べません。自分が愛着を持てないものは、人にも勧められません。

徳永 「可愛い」の基準はありますか。

下西 私は三代目と六代目の人形を手本にしています。両者の人形には、穏やかでやさしい表情があって、私にとっては非常に惹かれる存在です。逆に五代目などは、きりっとした強い表情をしていて、それもまた良いのですが、私の好みとは少し違います。

徳永 目入れは作り手の性格や感性も表れるのかなと思いましたが、実際にそう感じますか?

下西 私はそう思っています。話したことのない先代の人でも、目入れの雰囲気から「この人は穏やかな性格だったのかな」と感じることがあります。人柄が人形ににじみ出る、それがこの仕事の面白さであり、奥深さでもあります。

手前からそれぞれ三代目、五代目、六代目、七代目が作った人形

道具ひとつのために1000m級の山を登山

徳永 制作の課題についてもお聞かせください。

下西 人形が作られ始めた当時というのは、その土地で安価に手に入るものが材料として使われてきました。しかし、何百年も経つ中で、田んぼがなくなり、生活様式が変化したりして、当時は身近だった材料が、どんどん手に入りにくくなってきています。

 例えば、白色を作る胡粉は、何十年もかけて干された貝殻を使うものが一級品とされています。筆や金粉・銀粉など、細部の装飾に使う材料も非常に手に入りづらくなりました。道具でも原材料でも、変更するにはかなりの労力と時間がかかります。ある金粉の色が廃番になって、「これに代わるものはこちらです」と紹介されても、それを使いこなせるまでに数年の試作が必要です。発色が変わらないか、退色しないか、納得がいくまで確認しないと使えません。筆も現在2年がかりで試作と検証をしています。以前は京都の筆屋さんから仕入れていましたが、廃業されてしまい、今は別の筆屋さんのものを使っています。

 他にも、人形を入れる外箱も、長年取引していたところが廃業してしまって、今は代わりを見つけるのにも苦労しています。人形作りのための道具も、ほとんどが手作りです。たとえば木べらなどは、自分で材料となる木を山に登って取りに行きます。宮崎ではその木が自生している場所が標高1000m以上の高い山にあるので、そこに登って採取しています。体力も知識も必要で、気軽には手に入りません。必要な材料と道具も、一定程度私の手元にも在庫はありますが、残り半分を切ったらもう手に入らないと思って備えるようにしています。

少子化と家の間取りの変化

徳永 今現在、佐土原人形を購入されるお客様は、日本の方と海外の方でどれくらいの比率ですか? 

下西 地元のお客様が多いですね。大まかに分けると、購入者の約半分が地元の方、残りの半分が県外の旅行者の方、あるいは佐土原出身で今は外に住んでいる方という感じです。それに対して、海外からのお客様はほぼゼロです。

徳永 どんな方が購入されるのでしょうか。

下西 お客様の年齢層は幅広く、例えば、佐土原出身の方が、お嫁入りの時に人形を持って行かれて、それを屋根裏の長持の中にしまって、大切に保管していたというお話を聞いたことがあります。高齢で佐土原にもう来るのが難しいおばあさまに、お孫さんが人形をプレゼントされたというお話も。そのときに「これが佐土原人形よ」と、とても懐かしそうに喜んでくださったと聞いて、本当に嬉しくなりました。私に代替わりしてからも、毎年欠かさず来てくださるお客様もいらっしゃって。そういう方たちから、佐土原出身であることをすごく誇りに思ってくださっているというのが、言葉の端々から伝わってきます。

徳永 地元の方たちが買われるきっかけというのは、どういったタイミングが多いのでしょうか? 人形は一度買えば長く使えるものなので、日常的に買い替えるものではないと思っていました。

下西 一番多いのは子供の初節句のお祝いです。佐土原の方たちは、特に初節句をとても大切にされています。それから、出産祝い。犬の人形は「多産でお産が軽い」と言われていて、お守り的な意味合いで贈られることがあります。あとは新築祝いなど、人生の節目に人形を贈るというのが多いですね。毎年干支人形を買いに来てくださるお客様もいらっしゃいます。

徳永 そうなると、少子化の影響は大きそうですね。

下西 少子化や生活様式の変化は大きいと思います。今は家を建てても床の間がない家も多く、大きな人形を飾る場所がなく、サイズを測って来店されるお客様も増えました。最近は小ぶりな人形を求める方が多くなっています。飾りやすくて、手元に置きやすいサイズ感というのが、時代に合っているのかもしれません。

筆を置く日に「まだまだだなあ」

徳永 先代から伝わる家訓や、大切にされている言葉があれば教えてください。

下西 「筆を置くまでが修行」という言葉があります。実際、先代も引退される日に筆を置きながら「やあ、まだまだだなあ」と仰っていました。その姿を見て、「ああ、先代は最後までずっと修行の気持ちで人形作りをされていたのだな」と感じました。私も常に「まだまだ自分は未熟で、学び続けなければならない」という気持ちでいます。

 佐土原人形の雰囲気はおおらかで優しいように見えますが、実際の作り手の世界は非常に厳しかったようです。弊社とは別の工房で、先代と後継者が同時期に制作をしていた場合、先代が納得しないものは、何体作っても「佐土原人形ではない」と判断されて壊されたという話もあります。それほどまでに、厳しい審美眼と伝統へのこだわりがありました。

引退するその日までが修行の日々

徳永 長い会社の歴史の中で、人形作りが続けられないかもしれないという、危機的な局面はありましたか。

下西 一番大きかったのは第二次世界大戦です。戦時中は人形が贅沢品とされて、制作が制限されました。それでもギリギリまで人形を作っていたし、実際に制作ができない期間も、型や道具の管理は怠らなかったそうです。

 もう一つは顔料に関する規制ですね。かつて、顔料の中に鉛が含まれていることが問題視され、使用が禁止されました。当時は、人形屋が「これは無害です」と証明書を添えて販売していたそうです。

 最近の問題で言えば、模倣品の存在が非常に大きいです。近年、歴史を学ばず、学ぼうともせず、勝手に「佐土原人形です」と名乗っているようなものが流通するようになりました。挙句、SNSでそれが本物のように扱われてしまうことが、本当に恐ろしくて、私自身も「伝統って何だろう」と迷うことがあります。

 自然災害の影響も無視できません。台風で水が入り込んだり、地震で建物が歪んで水漏れや腐食が起きたり。そういったこともここ数年で何度か起こっています。特に、今の作業場がかなり古くなっていて、加えて、地震で構造がズレました。雨が降ると水が入ってきたり、建材が傷んだり。できれば修繕したいのですが、資金や手間の問題もあり、なかなか難しいのが現状です。

 また、宮崎県内でさえ佐土原人形の認知度が下がっている現実があります。かつてはもっと楽しんで人形作りに取り組んでいましたが、今は「次の100年にどう残していくか」を真剣に考えることが増えました。実際、佐土原で人形を作っているのは今では弊社一軒だけになりました。かつては同じ地域で5軒ほどが人形作りをしていて、互いに競い合っていた時代がありましたが、他の家はすべて途絶えてしまいました。

徳永 下西さんも血縁ではなく外から来られて継がれたわけですが、「次に残していく」という点で、後継者の育成や技術の伝承についてはどうお考えですか? 

下西 継いだばかりの頃は、いずれは後継者を育てたいと思っていましたが、簡単ではありません。私自身、生活がギリギリの中で制作を続けているので、お給料を出して弟子を取る余裕がありません。「弟子入りしたい」という連絡を頂きますが、皆そろって「給与をもらって働きたい」という形での応募なので、お断りしています。

 もちろん、継いだ以上は、必ず次に何かを残したいと思っています。例えば、資料館や博物館に寄贈するという案もありますが、それだと一般の人が気軽に見ることができません。申請が必要だったり、撮影が制限されていたり。それでは、広く伝えられないと感じています。だからこそ、どうすれば開かれた形で残せるかを模索しています。

徳永 少し漠然とした質問ですが、伝統とは何だとお考えですか? また、これからどんな人形を作っていきたいですか。

下西 私が語るには少し重いテーマですが、私にとっては、「その土地に脈々と受け継がれてきた人の営みの中にある光のようなもの」です。別の言葉で表現すれば、地元の人たちが誇らしく思える何かです。

 佐土原人形を作っていると、地元の方々が声をかけてくださり、私のように、地元出身でもなくただ人形が好きでこの世界に入った人間に対して「佐土原人形をなくしてはいけない」「あなたが継いでくれて本当によかった」などの声を頂くこともあります。これからも、地域の人が「あの人形があってよかった」「自分の土地の誇りだ」と思えるような人形を作りたいです。

徳永 ありがとうございました。

 
カテゴリ: カルチャー
フォーサイト最新記事のお知らせを受け取れます。
執筆者プロフィール
徳永勇樹(とくながゆうき) 食客/東京大学先端研創発戦略研究オープンラボ(ROLES)連携研究員。1990年7月生まれ。早稲田大学政治経済学部卒。英語・ロシア語通訳、ロシア国営放送局スプートニクのアナウンサーを経て、2015年三井物産株式会社入社。4年半の鉄鋼製品海外事業開発、2年間のイスラエル留学を経て、社内シンクタンク株式会社三井物産戦略研究所にて政治経済の分析業務に従事。商社時代に担当した国は計100か国以上 。2024年7月末に退職しプロの食客になる。株式会社住地ゴルフでは、一切の業務が免除、勤務地・勤務時間自由という条件のもと、日本と世界の文化研究に専念する。G7及びG20首脳会議の公式付属会議であるY7/Y20にも参加。2016年Y7伊勢志摩サミット日本代表、2019年Y20大阪サミット議長(議題: 環境と経済)、Y7広島サミット特使を務めた。新潮社、ダイヤモンド社、文芸春秋社、講談社、The Mainichiなどで記事を執筆。2023年、言語通訳者に留まらず、異文化間の交流を実現する「価値観の通訳者」になるべくCulpediaを立ち上げた。
  • 24時間
  • 1週間
  • f