中国は再び「中華」に戻るのか――「倭寇」で読み解く“歴史的慣性”

岡本隆司『倭寇とは何か:中華を揺さぶる「海賊」の正体』(新潮選書)

執筆者:彭浩 2025年4月25日
タグ: 日本 中国
倭寇図巻(東京大学史料編纂所所蔵)

「倭寇」を切り口に、東アジア600年の歴史の構造を読み解いた話題書『倭寇とは何か:中華を揺さぶる「海賊」の正体』(岡本隆司著、新潮選書)。同書の議論は、中国人研究者の目にはどのように映ったのか。近世日中関係史を専門とする大阪公立大学教授の彭浩さんが読み解く。

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通俗的な「倭寇」観から跳躍する

「文章はまさに時のために著すべし」(白楽天の名句)。時代の話題や潮流を敏感に捉えた作品が、広く評判を呼ぶ。岡本隆司氏は、その意識を強く持つ歴史家と思われる。「反日」や「政冷経熱」など、戦後から現代につながる問題に焦点を当て、数百年ないし千年以上の長い歴史をたどり、問題発生の深層構造を探る著者の作品群が好例と言えよう。それは、人口に膾炙する傑作を次々と生み出す秘訣の一つかもしれない。

 では、今回の作品はどうだろうか。タイトルを見て、16世紀前後の「倭寇」を扱う本だと思う人が少なくないだろう。数年前に世に問われた話題作、『明代とは何か』(名古屋大学出版会、2022年)を念頭に置けば、むしろ筋が通る推測である。しかし、目次をめくってみると、思わず迷いが生じた。予想が的中したのはわずか五分の一の程度で、半分以上の章節は、まさか近現代史の話になっている。さらに驚くべきことに、ニュースで報道された当代中国の時事政治さえも扱われている。一体、「倭寇」との関連性はどこにあるのだろうか。

 本文を読み進めるうち、「華夷同体」という言葉の含意と、それに即した事例の解釈が分かると、まるで霧が晴れるように心中がすっきりと明快になる。俗に言われる「倭寇」観から思想的な跳躍を遂げ、「華夷同体」の構造を抽出し、それを切り口に約600年にわたる中国史を悠然と自在に論じるその展開には、思わず圧倒される。

東洋史の立場から「倭寇」を問う

 中国人は「倭寇」についてどのように考えているのだろうか。その問いを受けても、一言で答えるのは難しい。歴史に詳しくない人が多いため、字義通りに、日本人の海賊と思うのは不思議ではない。しかし、私の直感に過ぎないかもしれないが、もし歴史に一定の関心があれば、「倭寇」、とくに明代中期のいわゆる「嘉靖(1522年 - 1566年)の大倭寇」に関しては、「真倭」より「偽倭」(倭を装った中国人)が多かったこと、また彼らの頭目には王直や徐海といった人物がいたくらいは知っているであろう。ただし、これらは、民族的な自尊心からすれば誇示すべき史実ではない。それは、村井章介氏が提唱した「境界人」論のような、学者の目を一新させるような学説が、中国の史学界に現れない一因と考えられる。

「境界人」論は、本書にも述べられているように、「倭寇」が日本人か中国人かという一国史観に基づく課題設定を超越するものである。前近代において、国境は往々にして線ではなく空間になる。16世紀の「倭寇」に即して言えば、その活動範囲は、環東シナ海の沿岸地域や島嶼部に及ぶ。中国沿海の漁民や海商をはじめ、日本列島や朝鮮半島の沿海部の住民や、大航海時代の波に乗じて東アジアに流入してきたポルトガル人など、多様な人々が共存する空間であった。そこには、鄭成功のような混血児もいれば、その父・鄭芝竜のような多言語を自由に操る人も稀ではなかった。「倭寇」を境界という空間に存在した多民族の連合体のようなものとして捉えることは、ナショナル・ヒストリーを脱却した新たな歴史像を構築するための一つのモデルを示す。

 ところが、東洋史の立場に立つ岡本氏から見れば、「境界人」論は、「倭寇」の人的構成をめぐる議論にとどまる。換言すれば、「倭」に対する見直しが問われるものの、「寇」についての検討が欠けている。「寇」が意味するのは、もちろん侵寇や掠奪である。ただし重要なのは、なぜ16世紀中期に爆発的に拡大したのか、その原因を探ることである。

 本書の解釈を評者なりにまとめると、「大倭寇」の台頭以前、明朝は朝貢一体化の政策を貫徹していた。すなわち、臣民の海外渡航を禁じ、貿易を朝貢国に限定する制度であった。貨幣の使用を最小限に抑える実物主義の時代には、何とかその制度を維持できたが、16世紀に入ると、国内では貨幣への需要が高まり、海外とくに日本では銀生産が盛んになる中、銀が大量に中国に吸収される経済的状況が生じた。それに伴い、中国の海商たちが海禁を破って銀取引の激流に身を投じるようになる。官憲の弾圧に対して抵抗の姿勢を強め、最終的に「大倭寇」の横行を招いた。

「華夷同体」と「華夷一体」

「倭寇」の話をその後の長い歴史と結びつけるには、「華夷同体」という補助線が不可欠になる。中国史に詳しい人は、「華夷一体」という言葉を思い浮かべるかもしれない。しかし、評者の理解では、両者の相違は実に大きい。

 漢民族の祖先にあたる人々が古い時代から「中原」と呼ばれた地域に暮し、戦争や統合を繰り返しながら、やがて強大な政権を樹立し、そして文字=漢字を創出した。周辺の民族に比べると文明度が格段に高いことに自負を持ち、自らを「華」や「夏」と称し、周辺の異民族には「夷」「蛮」「狄」「戎」といった蔑称を与え、文明の「中心」に対して周辺化を図った。後に、春秋時代、すなわち孔子の時代になると、この意識は支配秩序や社会秩序の論理と結びつき、いわゆる華夷秩序意識へと発展する。

 西暦の紀元前後にあたる時期は、漢の時代に相当し、ユーラシア大陸東部の平原地帯はほぼ統合され、農耕文明はその発展の極限に迫る。この時代は、文字史料に基づいて見る限り、日本列島からの人々との邂逅が始まり、華夷秩序意識のもとで日本は「倭」の呼称を付けられ、「諸夷」の系譜に加えられることとなった。

「華夷」関係は、「倭寇」が現れた境界地域にのみ発生するものではない。列島の状況と異なり、江戸時代初期の儒者が揶揄した「華夷変態」、すなわち「夷」が「華」の地に入り、「華」を治める歴史が繰り返された。漢代が滅びた後、しばらくして「五胡乱華」の時代に突入し、「中原」は異民族=「胡」の支配下に入る。唐代に至ると、とくに北方において、階層を問わず「華」「夷」の融合が進み、「華夷一体」「四海一家」は広域支配の多民族国家を統合するための必要なイデオロギーとなった。この論理は、後の元や清といった異民族が樹立した王朝にも受け継がれる。しかし、宋や明のような、漢民族が主体となる王朝が再建されると、「華夷之辨」の正統性意識が再び全面的に現れてくる。

「華夷一体」や「華夷一家」は、「華」も「夷」も同じ天子の臣民として「一視同仁」にすべきことを含意するが、必ずしも「華」の優越性を否定するわけではない。しかし、「華夷同体」は、「中国人」が「倭」を装うという事実の表れであり、「華」の優越性から見ると、不都合の事実と言わざるを得ない。つまり、朝堂での放言高論に使われる美辞麗句ではなく、実情を「内々」に話すような本音の露呈である。その意味で、「華夷同体」から時代の底流を観察することこそ、正鵠を射ていると言えるだろう。

 ただ、著者の卓見はそこにとどまらない。「華夷同体」を「もっと通時的・空間的に汎用性のある視座・概念」(72頁)として捉え、後の500年以上にわたる歴史、とくに各時代の最重要な瞬間や最も代表的な人物の軌跡に潜む歴史の一貫性を検証していく。

「華夷同体」の多面性

 本書でいう「倭寇」は、一般的な歴史用語としてのそれよりも遥かに意味合いが広い。著者は「倭寇」から「華夷同体」という構造的な特質を抽出し、それに焦点を当てることで後世の歴史を見通し、時系列に沿って〈「互市」の時代〉、〈近代史という「倭寇」〉、〈革命とは「倭寇」?〉、〈「倭寇」相剋の現代中国〉という章を立てる。これらの章で論じられる「倭寇」は、第1章のそれとは異なり、同時代の史料用語ではなく、分析用語として使われている。すなわち、「華夷同体」という特質を有するものであり、広い意味で「倭寇」と捉えてもよいとする理解である。

 歴史分析の補助線として見出された「華夷同体」も、複合的で多様な位相がある。次のように、少し類型化することも可能かと思う。

 まず、人間集団である。「境界人」のような、境界をまたぐ人々を意味する。たとえば、清朝中期の広州貿易における洋行商人、アヘン戦争以降の条約港における「買弁」(外国商人の代理を務める商人)、洋務運動をリードする官僚や政商、さらに戦争時日本に協力する「漢奸」などが、この類に属す。

 次に、それらの人間集団が活動する場である。植民地の歴史を有するマカオや香港などはもちろん、近代史上の条約港や租界も「華夷雑居」の地として、その特性を持っている。

 三つ目に、運動・現象である。19世紀後半、李鴻章ら清朝の開明派官僚が率いた洋務運動が典型例である。西洋の技術を導入し、近代工場を建設するなどの試みが行われた。他にも、アヘン貿易、条約と開港、維新変法、近代革命など、中国近代史の教科書に登場する重要な出来事は、いずれも「夷」つまり海外の要素と切り離しては語ることはできない。したがって、「倭寇」現象の類例と見てよい。さらに、近年の香港民主化運動なども、本質的な構造は似ている。

 最後に、歴史人物である。孫文、蒋介石、毛沢東のような「領袖人物」も「倭寇」と見なされている。彼らは、自らの政治目的を達成するために、国外の勢力と連携したり、外部的要素を活用したりした。これも「華夷同体」の枠組みで捉えることは可能である。ただし、程度の差も考えられる。私見では、最も「華夷同体」の色合いが濃いのは孫文である。彼はマカオ近くの香山県に生まれ、ハワイ・香港で教育を受けた。革命活動を続けるために海外に拠点を築き支援を募ったりし、革命運動が頓挫した際に国外への亡命を余儀なくされるなど、人生の半分近くを海外で過ごした。孫文には「華夷同体」の要素が色濃く感じられる。

中国を「中華」に引き戻す「歴史的慣性」

 近代以降、中国は、西洋との国力の差を度重なる戦争での大敗を通じて痛感した。知識人の間では、「夷の長技を師として以て夷を制す」から「中学を体とし、西学を用とする」への認識の転換が生じた。「夷」といった蔑称がほとんど使われなくなり、「華夷」も「中外」や「中西」といった中性的な表現に替わるようになる。この変化を受けて、歴史の叙述も変わり、多かれ少なかれ西洋中心史観に影響され、「近代化」が歴史の大転換をもたらしたという考えが、私たち現代人にとって「常識」のように定着してきた。

 しかし、本書のように、文字表現の問題はさておき、「華夷同体」のような、内実がさほど変わらない事象に気づくと、歴史の連続性が浮き彫りになる。とりわけ、「近代化」以前すでに数千年の歴史を誇る「中華文明」はなおさらである。ウェスタン・インパクトは、惑星の衝突のように、「中華文明」の進行軌道に偏りを生じさせたように見えるが、時が経つにつれ、歴史的慣性は再び社会の発展を旧来の軌道に引き戻す働きを見せる。経済学の用語でいう経路依存性が大きいのである。

「中国史」の一貫性を強く意識している点は、岡本史学の一大特色と言えよう。氏の著書の愛読者ならば、この特徴が本書に限らず、氏の他の著作と言説に概ね共通していることを理解できるはずである。しかし、冒頭でも触れたように、本書がもたらす「衝撃度」がやはり格段に大きなものであり、中国人が愛用する表現で言うと、まさに「百尺竿頭、更に一歩を進む」という印象がある。時代の枠を超えて歴史を探求し、事象の表層を突き抜け社会の深層構造に迫ることが、いかに重要なのかを、『倭寇とは何か』は見事に示している。その意味において、まさに秀作と言えるだろう。

  • ◎彭浩(peng hao)

1979年、中国山東省生まれ。2001年、曲阜師範大学歴史学部卒業。2005年、復旦大学大学院歴史学研究科修士課程修了。2008年、東京大学大学院人文社会系研究科修士課程修了。2012年、同博士課程修了。博士(文学)。東京大学史料編纂所特任研究員などを経て、現在、大阪公立大学大学院経済学研究科教授。著書に『近世日清通商関係史』(第58回日経・経済図書文化賞)。

  1. ◎岡本隆司(おかもと・たかし)

京都府立大学文学部教授。1965年、京都市生まれ。京都大学大学院文学研究科博士後期課程満期退学。博士(文学)。専門は近代アジア史。2000年に『近代中国と海関』(名古屋大学出版会)で大平正芳記念賞、2005年に『属国と自主のあいだ 近代清韓関係と東アジアの命運』(名古屋大学出版会)でサントリー学芸賞(政治・経済部門)、2017年に『中国の誕生 東アジアの近代外交と国家形成』で樫山純三賞・アジア太平洋賞特別賞をそれぞれ受賞。著書に『李鴻章 東アジアの近代』(岩波新書)、『近代中国史』(ちくま新書)、『中国の論理 歴史から解き明かす』(中公新書)、『叢書東アジアの近現代史 第1巻 清朝の興亡と中華のゆくえ 朝鮮出兵から日露戦争へ』(講談社)、『悪党たちの中華帝国』(新潮選書)など多数。

カテゴリ: 政治
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執筆者プロフィール
彭浩 1979年、中国山東省生まれ。2001年、曲阜師範大学歴史学部卒業。2005年、復旦大学大学院歴史学研究科修士課程修了。2008年、東京大学大学院人文社会系研究科修士課程修了。2012年、同博士課程修了。博士(文学)。東京大学史料編纂所特任研究員などを経て、現在、大阪公立大学大学院経済学研究科教授。著書に『近世日清通商関係史』(第58回日経・経済図書文化賞)。
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