日本人はロシア人とユダヤ人のジョークを理解できるか

執筆者:徳永勇樹 2025年1月5日
アネクドートはロシア人の批判精神の表れとも言われる(C)OlegDoroshin/adobe.stock.com
ロシアとイスラエルは「戦争犯罪」を指摘されながら、なお戦争を続けている。日本人にはロシア人とイスラエル人を理解できるだろうか。現地のジョークは、時にその国の行動や、独特の論理の理解を助ける。完全な理解は難しくても、完全には理解できないと認識することが、理解の第一歩になるかもしれない。

 ロシアで新しく人と出会い少し仲良くなると、しばしば「アネクドートは知っているか」と聞かれる。アネクドートとは、要はロシアのジョークである。名越健郎氏によれば、〈「アネクドート」の語源は、ギリシャ語の「アネクドトス(地下出版)」から来ており、帝政時代からロシアの伝統でした。旧ソ連のスターリン時代には、政治小話を口にしただけで逮捕され、収容所送りになった記録もあります。しかし、アネクドートは社会主義の矛盾や抑圧を温床として、旧ソ連・東欧圏で異常な発展を遂げました。庶民の不満や憂さを晴らし、現実を諦観する批判精神が、ソ連邦を崩壊に追い込む原動力になったのかもしれません〉(『ジョークで読む世界ウラ事情』名越健郎)とある。

 アネクドートは外国人にとって難解である。言語だけでなくロシア・旧ソ連圏の文化や歴史を知らなければ理解ができない、いわば「文化の総合格闘技」だからだ。その意味で、アネクドートは、ロシア語を学ぶ外国人の登竜門であり、ロシア文化のラスボスのように思える。筆者は、そのわかりづらさからこれまでアネクドートの学習から逃げていたのだが、コロナ禍でアゼルバイジャン人の友人と同居した際に、暇つぶしにと彼からアネクドートの解説指導を受ける機会があった。最初はチンプンカンプンだったのだが、徐々に自分でも面白いものを発掘できるようになり、最後は自作のアネクドートを披露して友人を笑わせていた。正確には数えていないが、これまで5000以上のアネクドートを読み込んだと思う。

若い兵士と学部長の関係は?

 アネクドートは世の中に無数にあり、政治、経済、宗教、民族事情といった固い話から、軍隊生活、大学、異性、映画など日常生活の様々なテーマまで守備範囲とする。直近数年は時世を反映してか、新型コロナやウクライナ関係の話が増えているようだ。それだけ多くのアネクドートが存在するので、面白いものとそうではないものは玉石混淆で、外国人も笑えるものもあれば、ネイティブのロシア語話者にとっても難解なものもある。ここでは、わかかりやすいものとわかりづらいものをそれぞれ筆者が選んで紹介する。

参考:https://www.anekdot.ru/tags/

 

①2人の友人(女性)が話しています:

-「なぜそんなに落ち込んでいるの?」1人目の女性が2人目の女性に尋ねた。

-「家の管理人のラリーサが私を馬鹿と呼んだの」と2人目の女性が言った。

-「心配しないで」と1人目の女性が言った。「ラリーサは自分の意見を持ってなくて、他人の意見を鵜呑みにしているだけよ」

 

 これは、相手に同情するふりをして、間接的にお前は馬鹿だと言っているジョークだ。比較的わかりやすいと思うが、では次のジョークはどうだろうか。

 

②2人の若い兵士が話しています。

-中尉をからかいましょう。

-でも、もう学部長をからかっただろう。

 

 これをロシア人に聞かせるとすぐにクスクス笑いだす。内容については後ほど解説したい。

 筆者はアネクドートの基本形を以下の通り設定した。アネクドートは多かれ少なかれ、こうした型に合致するようにも思える。一般的な笑いやジョークもこの型だろうが、筆者は笑いの専門家ではないのでここでは詳述を避ける。

(1)まず、理解を標準化する(前提を設定する) 

(2)次に、説明を加える(話を結論に誘導する)

(3)前提を覆す/伏線を回収する

 

 先程の兵士の例を再度引用する。

②2人の若い兵士が話しています。

-中尉をからかいましょう。

-でも、もう学部長をからかっただろう。

 

 まず前提は、若い兵士が登場するということだ。もし、これが普通の学生やサラリーマンならば後半のオチは生まれない。1行目によって、アネクドートの作者と読者の双方が、これは軍隊の話だと理解する(理解の標準化)。次に、2行目の中尉をからかうというのは、最後のオチを導く準備である。中尉は階級から判断すると、彼らの上司であろうことも読み取れる。そして、3行目に、急に学部長が登場する。しかも、既にからかった後だという。多分、皆さんはこの行で挫折しただろう。

 実は、3行目で気持ちよく笑うためには、もう2つ隠れた前提を拾う必要がある。それは、ロシアでは徴兵から逃れるために大学に行く人がおり、大学を退学になれば徴兵対象となってしまうということだ。つまり、このジョークでは、2人は大学で学部長をからかって学校を退学になり軍隊にぶち込まれたのに、懲りずに自分たちの上司をからかおうとしていることが滑稽なのだ。3行目の情報で、主人公が「若い兵士」であったことの伏線も回収される。ロシア人には、2つの前提が最後の伏線回収によってほぼ直感的に結び付く。だから、説明もなしにクスクス笑えるのだ。一方、日本人を含む外国人は、そういった前提を知らないので明らかな論理的飛躍があると思ってしまう。

サンタクロースとユダヤ人の違いは?

 もう一つ、ジョークの観点から、筆者が留学していたイスラエルにまつわる思い出を紹介したい。数年前、まだイスラエルとパレスチナ問題が今よりは安定していた頃、筆者の友人Aさんとその友達Bさんという2人のイスラエル人が京都に遊びに来てくれた。京都の町を色々と案内し、最後にバーでゆったりとお酒を共にした。

 酔いが回ってきたからであろう、Bさんが、「徳永さんはイスラエルに留学していたのだから、当然ユダヤのジョークは勉強しましたよね。一つ私からも披露させてください。サンタクロースとユダヤ人の違いは何ですか?」と切り出した。筆者がわからず困っていると、答えの見当がついたのだろう、友人のAさんが既にクスクス笑い始めている。少し考えて筆者は降参を決め、彼の答えを待った。

 答えは「サンタクロースは煙突を上から入り、ユダヤ人は煙突を下から登る」というものだった。Aさんは大爆笑。筆者は未だピンとこなかったが、煙突の上にサンタ、下にユダヤ人が配置された場面を想像すると、ある光景が頭に浮かんだ。そう、アウシュビッツ強制収容所である。ここで、ユダヤ人は虐殺され、大量に焼かれて、焼却炉の煙突から煙が立ち上った。正直、笑うに笑えない筆者は、微妙な愛想笑いを返すしかなかった。

 Bさんもひとしきり笑って満足したのか、「ごめん、ちょっとブラック過ぎたね」と謝ったが、それに続く彼の一言に軽い衝撃を受けた。それは、「日本には、広島・長崎や福島のジョークはないのかい?」という質問だった。すぐに出てくる答えは、「そんな不謹慎なジョークは、被害に遭われた方が可哀そうで言えるわけがない」というものだろう。私の祖父は長崎で原爆を経験しており、最近も直接被爆体験を聞いた。淡々とした語り口から悲惨な情景が紡がれるのを聞いて、この話から冗談一つ捻り出すことはできないと思った。

 筆者はBさんの問いに対し咄嗟に、「そんなの、可哀そう……」と言いかけたが、すぐに口をつぐんだ。手元にあったハイボールを気持ち多めに口に含み、いい答えが出るまでの時間稼ぎをしようとしたが、少し考えて彼を満足させる答えが見つからないとわかり、「どうだろう、文化の違いかもね」という禁じ手に逃げた。AさんもBさんも気にも留めずに次の話題を始めたが、可哀そう、の後に一瞬だけ動いた感情の正体をうまく言葉にできなかった。

 たしかにユダヤ人たちの笑いはどぎついし、ユダヤ人でない筆者には口角を上げることすら憚られるが、民族の苦難を後世の若い世代が当事者として受け止め、努力して笑いに昇華しているのならば、それはそれでものすごい覚悟だなと感じた。もちろん、笑いに変えれば当事者になるという話ではない。

 ただ、先祖が受けた被害に対する怒りや悲しみは、ユダヤ人も同じだ。欧州出身の先祖を持つイスラエル人はほぼ例外なく、親戚のうち誰かを迫害で失っている。また、イスラエルでは軍隊に入ると、エルサレムにあるホロコースト記念館でみっちり研修を受ける。無残に殺された先祖の写真を見ながら、国を持たない人間の末路はこうなると、徹底的に教わるのだ。

 日本人の、可哀そうな相手に寄り添う態度は立派だが、相手のことを「可哀そうだ」と言った時点で、「自分は可哀そうではない」と言ったようにも聞こえる。あたかも自分には関係ないと決め込んで、遠くの安全な場所から見下ろしているかのように。不謹慎なことを言って相手を傷つけることより、不謹慎なことを言って自分が社会から制裁を受けることに怯えているのかもしれない。筆者にはユダヤ人の歴史の捉え方が正しいとも言えないが、いずれにせよ両民族間では、同じように悲しい民族的な経験をしていても、過去に対する向き合い方には違いがあることを痛感した。

 以上、2つの国のジョークをご紹介した。上述の通り、文化の総合格闘技たるジョークから見えてくる各国の事情が浮き彫りになるのではと思ったからだ。実際、私自身もジョークを学んでから、より一層その社会に対する理解が深まったように感じることも多い。アネクドートやジョークを引用することで、その国や地域の奥底の部分を照らすことも可能だと思う。

 しかし、その一方で、わかった気になることが、物事のより深い理解を阻害しているとも思うようになった。筆者もついつい、ジョークを紹介することで、その地域の通ぶることもしがちなのだが、当然、一人の人間のことを完全には理解できないように、その集団を正確に理解することは簡単ではない。

 文化を学ぶことで、確かにその国のことを理解しやすくなるし、複雑怪奇な事象に一つの答えを出すことができる。答えがないことへの不安を抱える人類にとって、理解可能な答えを持つことは、刹那的でかりそめの安心をもたらすのである。しかし、そんな安心は、所詮は砂上の楼閣に過ぎず、実際は、とらえようがない現実が常に変化をする。私たちにできることは、目の前の建造物が堅牢ではないことを認め、時に自らそれを破壊しながらも、こぼれた砂をすくい続けることだけなのかもしれない。

カテゴリ: カルチャー
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執筆者プロフィール
徳永勇樹(とくながゆうき) 食客/東京大学先端研創発戦略研究オープンラボ(ROLES)連携研究員。1990年7月生まれ。早稲田大学政治経済学部卒。英語・ロシア語通訳、ロシア国営放送局スプートニクのアナウンサーを経て、2015年三井物産株式会社入社。4年半の鉄鋼製品海外事業開発、2年間のイスラエル留学を経て、社内シンクタンク株式会社三井物産戦略研究所にて政治経済の分析業務に従事。商社時代に担当した国は計100か国以上 。2024年7月末に退職しプロの食客になる。株式会社住地ゴルフでは、一切の業務が免除、勤務地・勤務時間自由という条件のもと、日本と世界の文化研究に専念する。G7及びG20首脳会議の公式付属会議であるY7/Y20にも参加。2016年Y7伊勢志摩サミット日本代表、2019年Y20大阪サミット議長(議題: 環境と経済)、Y7広島サミット特使を務めた。新潮社、ダイヤモンド社、文芸春秋社、講談社、The Mainichiなどで記事を執筆。2023年、言語通訳者に留まらず、異文化間の交流を実現する「価値観の通訳者」になるべくCulpediaを立ち上げた。
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