【沖縄戦秘話】信念を貫いた軍医の一生(戦後編)
広島県の山中に建てた「赤ひげ診療所」で救った無数の命

執筆者:浜田哲二
執筆者:浜田律子
2025年8月15日
タグ: 歴史 日本
佐藤介・元軍医(左)と妹尾せつ子さん。二人の関係はまるで、手塚治虫氏の漫画に登場する“ブラック・ジャックとピノコ”のようだ(妹尾さん提供)

 日本軍のプライドを懸けた米軍との交渉で通訳を担い、終戦後も戦い続けた将兵らを全滅から救った見習士官の佐藤介軍医。その功績は、公式な戦史には記録されていない。戦後の足跡を追うと、故郷の広島に復員して小さな診療所を開いていた。

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軍医の功績はなぜ戦史に記されなかったか

 私たちは伊東孝一大隊長の功績を、2001年に本人が自費出版した『沖縄陸戦の命運』で知ることができた。一方、佐藤介軍医については、同書でのわずかな記述と大隊長へのインタビューしか手掛かりがない。米軍との交渉に関しては雄弁だった大隊長だが、佐藤軍医のことはあまり話そうとしなかった。通訳として機能しなかったのかと聞くと、「そんなことはない。佐藤は立派に務めを果たした」と言い切る。ではなぜ?

少尉時代(左)と戦後(右/筆者撮影)の伊東孝一氏 拡大画像表示

 その理由は、責務を果たすために指揮官として部下の前で威厳を保とうとしながら、病による衰弱で弱気が見え隠れする青年将校の葛藤を、年上の軍医に見透かされていたからではないか。私たちはそう感じ取った。伊東大隊長は90歳を過ぎても、1000人近い部下を率いた指揮官としての誇りを保ち続けていた。あの手この手でエピソードを引き出そうとしても、自らの人間臭い振る舞いや恥ずかしい話はしたがらなかった。佐藤軍医の話をするときは楽しげでもあるけれど、なぜか奥歯にものが挟まったような言い方をしていた。

 大隊長から預かった名簿の「佐藤介」の欄には、“生存”との記載と、出身地の住所が残るだけ。米軍の記録や戦史叢書などの日本側の資料を調べても、沖縄での働きを示す記述は見つけることはできない。大隊長も、戦後の消息はあまり聞いたことがない、と首を傾げていた。いったいどんな人物だったのか、復員後の暮らしはどうだったのか。

 それを追うべく、伊東大隊長が鬼籍に入って5年が経った今年、行動を開始した。

診察室でタバコをふかす“影の村長”

 佐藤軍医は1946年、故郷の広島県神石郡牧村(現・神石高原町福永)へ復員している。同町遺族会の矢壁秀利さんに問い合わせると、元軍医は47年から同所において佐藤診療所を開設したという。残念ながらすでに逝去していたが、「佐藤先生を覚えている」という町民がいるとのことなので、現地を訪ねてみることにした。

 広島県の中東部に位置する神石高原町は、岡山との県境にあたり、農林と畜産が主産業。福山市からレンタカーで山間の道を1時間半ほど進むと、福永地区に着いた。家が近所だった佐々木弘己さん(70)と、佐藤軍医の親戚だという佐藤守(つかし)さん(95)が出迎えてくれた。

佐藤守さん(左)と矢壁秀利さん(中)が取材に応じてくれた(筆者撮影)

「とにかく、豪快な人だった」と二人は口をそろえる。

 お酒が大好きで美食家。愛煙家でもあり、診察室で“缶ピース”を盛大にふかしながら患者を受け入れた。診察が終わると、村人を集めての宴を催し、頼って来る人が後を絶たないほどの人気ぶりだったという。政治談議も大好きで、村役場の職員や助役などの重職までが、元軍医を頼って集まった。

「それで、ついたあだ名が“影の村長”。また面倒見の良さから、介(たすく)という名前をもじって、スケ先生とかスケさん、と呼ばれていました」

 一見すると型破りな暮らしぶりではあるが、医師としての腕や信用は確かだった。当時の村には医療施設が少なく、山仕事に関連する労災事故や出産で命を落とす村民が数多くいた。

 糖尿病をわずらい子供を産むことをためらう村の女性に、「わしが責任を持って最後まで面倒を見てやるけえ、あきらめずにチャレンジせい」と励まして、母子とも無事に出産へこぎつけた事例。狩猟中の事故で出血多量のハンターが担ぎ込まれた時には、村内放送で輸血の提供者を募って患者の命を救ったこともあったそうだ。

原爆で九死に一生の患者を治療

「実は、私も先生に助けられたのです」

 熱い口調で語り続けてきた守さんが、ひと呼吸おいた後、しみじみとつぶやく。

 広島市内の師範学校で学んでいた15歳の時、爆心地から約2キロの場所で原爆の熱線と猛烈な爆風を浴びた。気づいたらガレキに埋もれており、身動きが取れない。熱波のように吹き寄せた粉塵で喉がやられたのか、声がかすれてしまって助けも呼べなかった。

 次に気づいた時、動かせる首と頭を使って少しずつ隙間を広げて、何とかガレキの山から這い出した。全身が痛む。が、同じ宿舎にいた級友の姿を見て目を剥いた。腹が破れて内臓が飛び出しかけている。とっさにその傷口を手で押さえて一緒に病院を目指す。ガレキを避けながら、足の裏に焼き付くほど熱くなった電車道を進む。

 眼も負傷した級友は、「片目が見えん。これで徴兵検査を受けられんようになった。もう、わしはお国のために働けんのじゃ……」と嘆き続ける。こんな重症なのに何を言う。このままだと死ぬぞ、と励ましながらも、寄り添う友の腹から手を離せない。ただ、力を入れると自分の背中に違和感があった。ゴボゴボと音がして、腕に力が入らないのだ。

 病院へ到着するも、トラックに積み上げられて来た人たちが降ろされて折り重なり、足の踏み場もない。そうして、路上に集められた人たちが無残な姿で横たわっていた。崩れ落ちるように縁石へ腰かける。歩いてきた者は軽傷とみなされたらしく、手当てをしてもらえない。水を欲しがる級友の声が遠くに聞こえるようになった。なぜか眠くて仕方ないのだ。

 そのとき駆け寄ってきた衛生兵たちが、「そいつに水を飲ませるな。与えたら死ぬぞ。ん、君は背中に大穴が開いているじゃないか。呼吸のたびに血が噴き出している。眠いのは出血多量の証だ。眠るなよ、二度と目が覚めなくなるぞ」と励ましながら治療をしてくれた。それほどの重傷だったが、奇跡的に二人とも命拾いする。

佐藤さんの背中に残る傷(筆者撮影)

 戦後、守さんは故郷の神石へ帰郷。しかし、毛が抜けて倦怠感が収まらない原爆の放射線障害が始まっていた。背中の負傷痕が大きすぎて化膿し、高熱にも苛まれる。それを迎え入れたのが元軍医の佐藤医師だった。肉が盛り上がってくるまで丹念に傷をいやし、体力を回復させるために高栄養の食事とスポーツを奨励した。

 学生時代はソフトテニスの選手だったという元軍医とダブルスを組んで、地元では敵なしとなるほど上達。師範学校に復学した守さんは原爆症も徐々におさまり、広島県の教員となって地元周辺の中学校で理科や物理を教えた。核の惨禍を伝える語り部もしていたという。

「スケ先生はのう……。ワンマンで豪快じゃったが、わしの恩人であり、ええ兄貴なんじゃ」と感謝の念で振り返る。「被爆した当時は、いつ死ぬか、次は自分か、と心も体も衰弱していた。が、95歳まで生きながらえている。すべて先生のおかげよ」とほほ笑んだ。

貧しい村人を無償で診療、雇用までした“赤ひげ先生”

 佐藤医師と一緒に仕事をしていたという二人の看護師にも面会することができた。瀬尾カツコさんと妹尾せつ子さんだ。

「先生の専門は外科、内科、産婦人科じゃったけど、具合が悪い人は誰でも診たねえ。急患が出たら、自動車で駆けつけたんよ。診療所まで来れん患者さんのために往診もしとった」

 僻地を隅々まで飛び回る激務の日々。「医は仁術」を地で行く生きざまだったようだ。貧しくて医療費を払えない村人の治療も躊躇なく受け入れたという。

「患者の治療費が“ツケ”になっているのをずっと放置したままなの。それも、先生、大丈夫なの、と心配するほどの数だったわ」と当時を振りかえり苦笑いする。そればかりか、自分が持っている山や畑を無償で貸し出すなど、貧しい村人への援助を惜しまない人だった、と懐かしむ。

「実はね、私は介先生に引き取られて、育ててもらったんです」

 かしこまって語りだすせつ子さん。

「小学校6年生のとき、貧しさなどから両親やきょうだいと別々に暮らすことになったの。介先生のお母さんと同じ部屋で寝起きしながら、家事や診療所の仕事を手伝ったわ。血のつながった娘のように可愛がってもらって、診察室の窓の下を通ると、先生がひょっこり顔を出してチョコレートやアメをくれたりしてねぇ。励まされることはあっても叱られることはなかったよ」

 目を輝かせて、元軍医との思い出を語る。

 せつ子さん以外にも、生活苦の家族が住居を兼ねた診療所に住み込みで働いていた。医療の現場には食事の賄いから、入院患者のお世話まで様々な仕事がある。それらに従事しながら、食と住を確保できる暮らし。佐藤医師の声掛けで、様々な生活困窮者が出入りしていたという。朝鮮半島出身者も積極的に雇用していたそうだ。

「先生のお母さんの面倒を看てほしいと言われて働きだしたのだけど、助けてもらったのは私の方。あの貧しかった時代に、日に三度も米の飯を食べられて、看護学校にも通わせてもらえた。介先生が私の育ての父よ」

 涙を浮かべながら、遠い目で懐かしむせつ子さん。

 親と別れて暮らす心境を慮って、「おまえは両親に捨てられたのではないぞ。だから“自分はいらない子じゃ”と思うたらいけん。遠慮せず、何でも相談せい」と励ましてくれたという。

 当時を知る高齢者が元軍医の話をし始めると、みんなが泣き笑う。仕事も遊びも豪快で、はたから見ているとハラハラしてしまうほどの無茶苦茶な医師だったが、誰からも頼られる心優しい“赤ひげ先生”だったと。

佐藤医師との思い出を話す妹尾せつ子さん(右)、左は夫・昌武さん(筆者撮影)

戦友が訪ねてきた日、大音量で軍歌を聴きながら泣いていた

 佐藤家の関係者や地域の人々は、佐藤医師が戦時中に軍医だったことは知っているが、本人から戦争の話はほとんど聞かなかったと口をそろえる。通訳として500人の命を救ったという話を振っても「聞いたことがない」と首を捻るのだ。沖縄で壕にこもっていたと聞いた、という近隣の高齢者はいるが、それ以上の話は出てこない。

「そういえば……」

 せつ子さんが一度だけ見かけた元軍医の姿を話してくれた。佐藤医師が診療所の中の自分の部屋で深酒をしているときのことだった。

「そのときは飲みすぎたのでしょうか。大音量で軍歌を聴きながら涙を流していたの。何とも言えない寂しそうな表情で……」

 実はその日、北海道から訪問者があったという。佐藤医師は来客をせつ子さんたちに紹介する際、「わしが戦場で足を負傷して動けなくなったとき、看病して身の回りの世話をしてくれたんじゃ。この人は命の恩人よ」と説明したという。

 戦争中は見習士官という将校に準ずる立場であったから、世話係の“当番兵”がいたのだろう。部下が神石を訪ねてきてくれた、と懐かしそうにしていたそうだ。命の恩人でもある戦友と再会したことで、心の中に封印していた戦争体験を思い出したのかしら、とせつ子さんは虚空を見あげた。

 20万以上の兵士や民間人が命を落とした沖縄戦。そこに医師として従軍して見たのは、地獄のような光景であっただろう。

 棚原高地を奪還した戦いでは、大隊本部付の二十歳を過ぎたばかりの負傷兵が撤退を決めた大隊長に縋りついた。腹部をやられて、一人では歩けない重症。涙で顔をクシャクシャにしながら訴えている。

「置いて行かないで。手柄を上げて妹や弟たちにお土産を持って帰る約束をしているのです。一緒に連れて行ってください」

 大隊長は顔をそむけるようにして、腰にぶら下げていた手榴弾を握らせる。指揮官の武器を受領するのは最高の栄誉だが、それは自決のため。自ら死ぬのだ、と口に出して言えない大隊長の表情は苦渋に満ちている。

 同じく大隊本部付で、足に機銃弾を受けて歩けなくなっていた上等兵は小学校の元教員。部隊が沖縄に移動する前の満洲では、家族連れで赴任していた上官たちの子弟の教師を務めていた。野戦救護所で治療を受けていたが、最後の戦いの場となった国吉の陣地に這って現われ、配置につこうとしている。最後まで帝国軍人としての誇りを失わない姿に胸が熱くなる。だが裏を返せば、そんな重傷患者も戦わざるを得なかったのが日本の選択した戦争だった。

 組織的な戦闘が終わった後の壕内での暮らしでも、ケガや病気で衰弱した戦友が次々と亡くなった。それを看取るのは軍医の役目だ。壕内に埋める場所はないので、夜間、元気な者が運び出して埋葬する。琉球石灰岩の大地は土が少なく、すぐに埋葬地がなくなってしまう。遠くへ運ぶにつれ、米軍に見つかる可能性も増える。仕方なく、近くの畑の畝の間に置いて行かざるを得ないことも。後日、芋掘りに行った賄いの女性がそれを見て腰を抜かすほど驚いた、というエピソードもある。

 第一大隊付の見習士官だった元軍医は、大隊長の隣でそうした光景をすべて見ていたはずだ。神石を訪ねてきたのは同隊の衛生兵だとみられるが、どんな会話を交わしたのか、何を思い出して涙ぐんでいたのか、何もわからない。だが、育ててもらった看護師たちは、豪快な先生の意外な一面を見て、戦争の傷が胸の奥底に残されているのを感じたという。

 復員してからも、命の大切さを何よりの信条にした元軍医。自らの戦争体験を家族や部下たちに話さなかった理由はわからない。落ち込んだら、気を紛らわせるかのように女性の看護師を含めた職員全員を連れてキャバレーへ繰り出した。あるときは、庭の池に飼っているスッポンを手術台で捌いたりする奇行で、周囲を驚かせた。

 最初の大阪万博が開催された1970年5月、佐藤医師は波乱に満ちた55年の生涯を閉じる。敗戦のどん底から這い上がってきた日本の、高度経済成長が真っ盛りの時期だった。

昭和42年夏に撮影された佐藤医師の写真。このあと癌の手術を受けたという(妹尾さん提供) 拡大画像表示

「医者になれば戦場でも命を救うことができる」――受け継がれた家訓

旧佐藤診療所の看板(筆者撮影)

 旧佐藤診療所を訪ねてみた。主を失ってから40年以上の歳月を経て、草生している。
トラックに草刈り機を積んで通りがかった平棟義明さん(70)に話を聞くと、平棟さんの父親も幼い頃に家族が離散し、佐藤家に預けられたという。大人になると父は佐藤医師の自家用車の運転を担い、訪問医療や急患対応など昼夜を問わず車を走らせた。そういうとき、佐藤医師は義明さんにも「ほら、一緒においで」と声を掛けた。

 父親の運転する車に先生と並んで乗るのがとても楽しみだった、と義明さん。診療所の敷地の一角に家を建ててもらい、困った時はいつも助けてくれたと感謝の面持ちで懐かしんだ。この日も佐藤家から任されている農地の草刈りをするため、約30キロ離れた福山市の自宅から立ち寄ったそうだ。

 佐藤医師のことを取材していると話すと、トラックから降りて診療所の施設について説明してくれた。

「 “佐藤醫院”という一枚板の看板が掛かっているのが診察室への入り口で、こっちの立派な木造の建物が入院患者の入る病棟」と指をさす。そして、「お産が多かったので、妊婦が無事に出産まで過ごせるように気を遣っていたな」と呟く。

 沖縄戦で犠牲になる子供の姿を見たからなのか、元軍医は医師の少ない山間部の僻地で、赤ちゃんを取り上げることに心血を注いでいた。母子ともに無事な姿を見ると、満足そうに目を細めていたという。

旧佐藤診療所の診察室など(筆者撮影)

 佐藤医師亡き後、長男の温三さんが診療所とともに父の想いを継いだ。高齢者に寄り添う特別養護老人ホーム「神寿苑」を新たに旧神石町(現神石高原町)で開設する。そのすぐ脇に診療所も移して、医療の届きにくい山間部などに暮らすお年寄りたちが入所できる受け皿を作り、誰もが安心できる老後の暮らしを充実させる事業に力を注いだ。

 その施設を軌道に乗せるも1985年に志半ばで逝去、後は妻・裕子さん(82)が引き継ぎ、現在は地域の関係者が運営している。

 そして、温三さんの息子で元軍医の孫にあたる直嗣さん(57)が岡山市内で、次男・俊介さん(55)は山口県岩国市で医師を務めている。直嗣さんが休診日に招いてくださり、母・裕子さんと一緒に祖父や父との思い出を紡ぐ。

「祖父は幼い頃に亡くなったので、沖縄戦での働きをいま初めて聞いて驚きました。でも、豪快な逸話の多い祖父らしいなぁ。やんちゃだったのでしょう(笑) 覚えているのは家訓です。人の命を奪う戦争は絶対にいかん。だから医者になれ。そうすれば戦場でも命を救う仕事ができるんじゃ、と叩き込まれた。その教えどおり、うちのきょうだいは全員が医師になったのです」

 先の大戦では200万人以上の日本兵が戦没した。神石高原の山間部から出征した若者たちも、1500人近くが帰還できていない。敗戦から約20年が経って高度経済成長を謳歌する社会の狭間で、取り残されたように暮らす高齢者が散見されるようになった。戦争で大黒柱となる後継者を失い、介護や看取りなどを誰にも頼ることができないお年寄りたちだった。

「沖縄での体験から、祖父も戦争が引き起こした事象に心を痛めていたのではないでしょうか。その気持ちを父が引き継ぎ、高齢者福祉施設の立ち上げに尽力しました。当時としては先駆的な発想で、地方の高齢者介護問題に一石を投じる事業だったと自負しています」

 診療所や福祉施設の運営にまでかかわっていた裕子さんも、こう振り返る。

「義父は子供が大好きでした。沖縄戦では高齢者や女子供を含めた民間人が犠牲になるのを目の当たりにしていたはず。だからこそ戦争を許せなかったのでしょう。弱者に手を差し伸べたのも、人々の暮らしや心に残る戦争の傷跡を癒すためだったと思います」

 米軍とのギリギリの駆け引きで守った500人近い命。復員後の地域医療で救った数百の命。命を守ることに生涯をささげた医師にとって、青年期の働き盛りに放り込まれた戦場は途轍もなく辛い現場であったはずだ。

 戦争で失われた命は日本人だけでも300万をはるかに上回る。戦争のトラウマを胸に秘めて世を去った赤ひげの元軍医に、令和の世はどうみえているのだろうか。人の命が簡単に奪われる戦争は、今も世界各地で続いている。

佐藤温三さんの銅像が立つ旧神寿苑入り口で語る佐々木弘己さん(中)と佐藤守さん(右)(筆者撮影)
カテゴリ: カルチャー
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執筆者プロフィール
浜田哲二(はまだてつじ) 元朝日新聞カメラマン。1962年生まれ。2010年に退職後、青森県の白神山地の麓にある深浦町へ移住し、フリーランスで活動中。沖縄県で20年以上、遺骨収集を続けている。日本写真家協会(JPS)会員。著書に『ずっと、ずっと帰りを待っていました:「沖縄戦」指揮官と遺族の往復書簡』『80年越しの帰還兵:沖縄・遺骨収集の現場から』(ともに新潮社)
執筆者プロフィール
浜田律子(はまだりつこ) 元読売新聞記者。1964年生まれ 奈良女子大学理学部生物学科・修士課程修了。著書に『ずっと、ずっと帰りを待っていました:「沖縄戦」指揮官と遺族の往復書簡』『80年越しの帰還兵:沖縄・遺骨収集の現場から』(ともに新潮社)
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