日本軍通訳だった96歳の元ベトナム軍将校が語る日越秘史(中)
日本敗戦でも消えなかった「アジア解放」への思い

執筆者:吉村剛史 2025年8月13日
タグ: 歴史 日本
エリア: アジア
ベトナム戦争当時のフィン・チュン・フォン氏(左、フィン氏提供)と戦時中の猪狩和正氏(右、猪狩正男氏提供) 拡大画像表示
敗戦後も復員せずにベトナムに留まった旧日本軍将兵は、なぜベトミン軍に協力したのか。残留日本兵と現地ベトナム女性の間に生まれた男性は、「再びベトナムがフランスの植民地になることは看過できない。アジアから米英仏を駆逐するという目的のためベトミンとともに戦う」という思いが父たちにはあったと語る。

「歩兵操典」に記載された対戦車肉薄攻撃とは

 1945年10月、ベトミン(ベトナム独立同盟会)軍のベトナム南部ニャチャン・カインホア戦線司令部では、ニャチャン西方約10キロにあるディエンカンの町の小学校に「特攻教室」を特設した。そこでは祖国日本への復員を待つ隊から離れ「新ベトナム人」として生きることを選んだ元日本軍将校、下士官らが、小型の武器を用いて敵戦車に肉薄する日本軍特有のカミカゼ戦術を伝授した。

 対戦車肉薄攻撃はノモンハン事件(1939年)以来の伝統的な日本陸軍特有の攻撃方法で、当時の「歩兵操典」などには末尾に「附録」としてその項目が掲載されている。

旧日本陸軍の「歩兵操典」(昭和19年)表紙(筆者撮影) 拡大画像表示

 その第一項には「対戦車肉薄攻撃は自衛の為行ふ。之(これ)が為(ため)敵戦車の近迫するを待ちて攻撃するを通常とす。状況に依り自ら進んで攻撃することあり」(ひらがな部分は原文ではカタカナ表記)と同攻撃が基本的には防衛戦術でありながら、状況に応じては攻撃戦術としても採用するという原則を記載。

 第二項には「肉薄攻撃の要は好機に乗じて突如肉薄し決死の攻撃を行ふに在り。戦車の障碍(しょうがい)の通過、斜面の攀登(はんとう)等行動遅緩(ちかん)するとき、戦車相互及(および)歩兵と分離せるとき、隠蔽(いんぺい)地を通過するとき並(ならび)に夜間、黎明、薄暮等は通常攻撃の好機なり。状況之を許せば煙を使用し或(あるい)は戦車地雷を布置する等の手段を講じ積極的に好機を作為す」などとある。

 事実上の自爆攻撃であり、新ベトナム人ファン・ライと名乗った猪狩和正元歩兵中尉らは、「特攻教室」でこうしたテキストに忠実に指導したと推察される。

 元ベトナム人民軍砲兵少佐、フィン・チュン・フォン氏(96)は「特攻教室の存在は軍極秘で、関係者には箝口令が敷かれていた。通訳に選ばれた私も相当な重圧を感じたものだ。ただ、それだけに教官と生徒には肉や魚、野菜など、猛訓練に耐えるに十分な糧食が用意されていたし、軍上層部の視察も連日のように相次いだ」と、ベトミンが大きな期待を寄せていたことも証言した。

カテゴリ: カルチャー
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執筆者プロフィール
吉村剛史(よしむらたけし) ジャーナリスト、台湾・外交部フェロー(国立政治大学客員研究員)。元産経新聞台北支局長。日本大学法学部卒後、1990年、産経新聞社に入社。阪神支局を初任地に、大阪、東京両本社社会部で事件、行政、皇室などを担当。2006年~2007年、台湾大学に社費留学。2011年、東京本社外信部を経て同年6月から、2014年5月まで台北支局長。帰任後、日本大学大学院総合社会情報研究科博士前期課程を修了。修士(国際情報)。岡山支局長、中国四国(広島)総局長、編集委員などを経て2019年末に退職。以後、東海大学海洋学部非常勤講師や台湾電子メディアThe News Lens日本版編集長などを歴任。2025年1月から台湾・外交部フェロー(国立政治大学客員研究員)。主なテーマは在日外国人社会や中国、台湾問題など。著書に『アジア血風録 』(MdN新書、2021年)。共著に『命の重さ取材して―神戸・児童連続殺傷事件』(産経新聞ニュースサービス、1997)、『教育再興』(産経新聞出版、1999)、『ブランドはなぜ墜ちたか―雪印、そごう、三菱自動車事件の深層』(角川文庫、2002)、学術論文に「新聞報道から読み解く馬英九政権の対日、両岸政策-日台民間漁協取り決めを中心に」(2016)など。日本記者クラブ・外国特派員協会・日本ペンクラブ会員。ラジオ成田「台湾日本Radio Express」、動画番組「吉村剛史のアジア新聞録」「話し台湾・行き台湾」(Hyper J Channel)等でMCを担当。
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