「日本軍が自給自足に成功」ラバウルで起きていた「白米ごはん」をめぐる怨恨騒動|吉田裕×林英一 戦後80年特別対談

執筆者:吉田裕
執筆者:林英一
2025年7月18日
タグ: 日本
エリア: アジア
今村均陸軍大将は、現地での食料の自給自足体制を整えることに成功したとされているが(Wikimedia Commons)

 パプアニューギニアのラバウルといえば、アジア・太平洋戦争において今村均大将率いる日本軍が現地での食料の自給自足体制を整えることに成功し、飢餓に苦しむことなく終戦を迎えたことで有名である。

 しかし、二松学舎大学准教授の林英一さんの新刊『南方抑留:日本軍兵士、もう一つの悲劇』(新潮選書)では、そのラバウルでも戦後、食料をめぐる怨恨騒動が発生していたことが明かされている。ベストセラー『日本軍兵士』『続・日本軍兵士』の著者で、一橋大学名誉教授の吉田裕さんと、南方抑留の実態をめぐり語り合った。【構成:梶原麻衣子】

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英軍の半分程度の摂取カロリーだった日本兵

吉田 『南方抑留』の中で面白かったのは、給養(軍隊で兵員に食糧、生活必需品を支給すること)の問題です。抑留日本兵の1日の食事量、摂取熱量(カロリー)についても具体的に書いてありますね。

 吉田先生の『続・日本軍兵士』にも米軍と比較した給養の問題について書いてありました。日米の摂取熱量差は大きく、日本側は断然少ないです。

吉田 断片的な資料しか見つからなかったんだけれど、『続・日本軍兵士』では1930年代の1日あたりの摂取熱量の平均を比較しました。日本は国民1人1日あたり2050カロリー。一方アメリカは3280カロリー、イギリスは3110カロリーとかなりの差があり、特に脂肪の量は、日本は英米の約半分程度です。さらに戦争が始まってからは、日本人の1日あたりの摂取熱量は2000カロリーを切っています。

抑留期の食事、栄養状態は過酷なものであった[林英一氏](C)新潮社

 『南方抑留』でも、第1章で給養の問題について言及しているのですが、タイの抑留者の場合は、英軍ではなく現地のタイ政府が給養を担当したこと、タイの食糧事情が比較的良好だったことで、労務者の定量である2500~2950カロリーが支給されていました。

 これに対して、英軍が給養を担当したシンガポール、ジャワ、スマトラでは、1945年12月以降に英軍から支給される米の定量が8オンス(1オンス28.35グラム)に削減されるなど待遇はよくありませんでした。

 東南アジア連合軍が日本軍の一般定量は1600~1700カロリー程度(主食280g程度)で、重労働に従事する場合には50%の増配を認めることがあると終戦後に定めたことが基準になっていたようです。英軍のKレーション(携帯口糧)1日分が4000カロリーですから、1600カロリーはその4割、1600カロリーを50%増した2400カロリーは6割と、日本兵は英軍の半分ぐらいの給養しか与えられていなかったことになり、抑留期の食事、栄養状態が過酷なものであったことは確かです。

ラバウルでも起きていた食糧をめぐる対立

吉田 ラバウルでの集団生活の話も興味深く読みました。日本軍が自給自足に成功したと自画自賛的に語ってきたラバウルにも、実は食糧問題があったと指摘されていますね。

 ラバウルにいた予備役召集軍医の麻生徹男陸軍大尉の日記を引いていますが、オーストラリア軍から〈毎日の白米の消費は一人当たり80グラム、塩は7グラムとし、一日の摂取カロリーを2400カロリーの範囲とすべし〉との勧告を受けていたにもかかわらず、「日本軍人は贅沢で1日に500グラムもの白米を消費する者がいる」と指摘されたという記述があります。

 しかし、贅沢をしていたのは「米食い族」の将校たちだけで、麻生自身は「さつま芋や野草を食べているだけで、白米の支給が時たまあっても100グラム以下」という乏しい食生活を送っており、「お偉方は三度白い銀メシを食べていた」と激怒しています。

食糧の恨みは、自国や軍隊に対する信頼を損ねている面もある[吉田裕氏](C)新潮社

吉田 食糧の恨みは、自国や軍隊に対する信頼を損ねている面もありますね。『続・日本軍兵士』でも犠牲の不平等について触れていますが、やはり将校よりも下士官・兵の方が死亡率が高い。抑留期の食事についても同様の不平等があり、下士官・兵が満足に食事もできない中で、将校たちは白米を食べていたりする。となれば当然、反感が沸きますよね。

 食事の差によって上官と部下の関係が崩れていく。麻生も「参謀食と称し、私たちの食べ物と全く異なった贅をつくした白米や現地産の陸稲を主食としている高級将校連のある事はどうした事であろう」と怒りを込めて書いています。

吉田 この「参謀食」という表現も面白いですね。ラバウル以外の孤立した島々でも階級が上のものほど食事が手厚かったという記録がありますが、麻生の日記はそれに対する反感が生々しく表現されていて、とても興味深く読みました。

 やはり抑留者にとって食事は最大の関心事なので、不正があれば恨みも大きくなります。

「名将」今村均に対する批判

吉田 もう一つ、麻生の日記で面白かったのは、連合軍から在ラバウル日本軍捕虜に対し食糧支給の申し出があったにもかかわらず、今村均大将がこれを断ってしまったことに対して、麻生が批判をしていたところです。

 ああ、あそこの記述も手厳しかったですね。〈実になかなか御立派な事である。今村将軍としても戦争中よりラバウルの現地自活体制は完璧であると内外に宣伝していたので今更物欲しそうな顔も出来まい〉としたうえで、部隊によっては農耕に苦労しており、〈今村将軍の云う完璧な現地自活体制の楽屋裏は必ずしも奇麗事ばかりではない〉と書いています。

 ラバウルは自給自足が成功したうえに早期復員も実現したことで恵まれていたと言われますが、それでも一兵卒の目線で見れば、とても過酷な抑留体験だったことがわかります。

吉田 給養についてもう一つ。イギリス軍に比べてオーストラリア軍のカロリーの水準が低いのはなぜなのでしょうか。

 第二次世界大戦後も兵力、経済力、物資量いずれも余裕があったアメリカと比べると、イギリスとオーストラリアは戦争で疲弊しており、そのうえ多くの日本兵を抑留者として抱えることになったため、補給や管理に手を焼くことになりました。その中で、とくにオーストラリアの方が過酷な状況になってしまったということなのかなと思います。

 また、確かに給養で見るとイギリス軍よりもオーストラリア軍の方が過酷なのですが、一方でイギリス軍はスマトラ島の日本軍を再軍備させてインドネシア武装勢力の鎮圧作戦に当たらせるという国際法違反を行っています。これはイギリス軍の苦しい戦力事情によるものです。

 また1946年内に多くの抑留者が復員する中、イギリス軍とオーストラリア軍は無人島に日本兵を送りこんでいますが、オーストラリア軍管理下のファウロ島では日本海軍兵士の3割から4割程度が栄養失調とマラリアで命を落としています。これはイギリス軍管理下のレンパン島やガラン島よりも犠牲が大きく、オーストラリア軍の抑留の方がこの点では過酷だったと言えそうです。

日本兵が敗北を実感した瞬間

吉田 ちょっと話が変わりますが、私の叔父は戦闘機乗りでして、終戦時にビルマで降伏しました。そこで、どんな瞬間に一番敗北を実感したかと言えば、進駐してきた英軍の飛行機から油が漏れていなかったのを見たときだったそうです。つまり、日本の飛行機はいつもどこかから油が漏れていたのに、英軍の油漏れのない飛行機を見て「これは勝てるわけがない」と感じたということです。

 あるいは私の母も、戦後、銀座で見かけたアメリカのMP(憲兵)のお尻がプリッとしていて格好良かった、とよく言っていました。日本人男性の貧相な体格とのギャップを感じたのでしょう。日本人にはアメリカとの物量や体格の違いなどを痛感して、敗戦や占領を受け入れていったという局面があったと思います。

 南方の抑留者たちにとって、敗北をもっとも実感させられた瞬間、カルチャー・ショックを受けた瞬間とは、どのようなものだったのでしょうか。

 やはりアメリカ製のレーション(携帯口糧)を食べた時ではないでしょうか。本にも書きましたが、日本の抑留者の日記を見ると、レーションの美味しさと栄養価の高さに感激している様子がよくわかります。

吉田 日本のレーションは金平糖と乾パン。それと比べると米国製のレーションなどはチーズにビスケット、スープにチョコレートバーですから、さぞ驚いたんだろうと思います。

 他に、抑留者が石砕作業に駆り出された時に、イギリス軍が使用している重機を見て驚嘆し、「我々はこの近代的機械装備に敗北を喫してしまった」と思ったという話も本では紹介しました。

 また敗北を感じたということで言うと、女性に関する記述が散見されましたね。インドネシアで、オランダ人の女性が船の甲板で水着姿で日光浴をしていてショックを受けたとか、あるいはタイピストの女性と会話を交わしたときに、「今日はクリスマスですから」と相手が楽しそうに笑ったのを見て、「クリスマスを楽しむ彼女たちに比して、抑留者である自分たちは……」と惨めな気分になったとか。

 ただ、激戦地だったビルマ、フィリピンは別として、その他の地域ではむしろ自分たちが敗北したという実感がないまま、抑留生活を送っている日本兵が多かったような印象です。後方地域に取り残されて連合軍との戦闘を経験しないまま終戦を迎えた兵士も少なくなかったため、連合軍に「負けた」という認識がそもそも希薄だったようです。加えて抑留者を管理する側の英豪軍も、かなり疲弊していたことが影響しているのかもしれません。

イギリス軍への反感、日本軍への幻滅

吉田 そこで気になるのが、やはり日本軍兵士の意識の変容です。彼らの日記の記述からは、抑留される中で、紳士だと思っていたイギリス軍の野卑で居丈高な態度に幻滅し、反発が深まっていくことが分かります。

 実際、米軍と比べてイギリス軍は日本軍兵士の自発的な活動を制約する傾向がありました。これはイギリス軍の植民地主義的な性格によるものなのでしょうか。

 イギリス軍への反感によって、日本軍兵士たちが自らの加害責任を省みる契機を損なっていたのではないかとも思うのですが、いかがでしょうか。

 たしかに会田雄次の『アーロン収容所』をはじめ、イギリス軍が平気でモノを盗んだりするのを見かけて幻滅したというような記述が、多く見られます。また、イギリス軍の露骨な締め付けや鼻持ちならない態度に、抑留者が反感を覚えていたのも確かなようです。

 ただ難しいのは、そこに植民地主義がどの程度影響していたかです。日本軍の戦闘に巻き込まれて、多くの現地の人が命を落として労働力が減ったり、現地のインフラが破壊されたりしたからこそ、日本人が労働に従事させられたという側面もあり、必ずしも報復的な見せしめのためだけとは言えないように思います。

吉田 なるほど。

 例えばし尿収集をさせられている抑留者は、「こんな屈辱的なことを日本人にやらせるとは」と感じていますが、イギリス軍はよりビジネスライクで、必要だからやらせているというだけで、とくに見せしめ的なことが主目的ではなかったようです。しかし受け止める側はその扱いに植民地主義的なものを見出していた。そこに認識のギャップが生じていた気がします。

吉田 その一方で、先ほどの「参謀飯」のくだりもそうだけれど、抑留者たちの間で日本という国や軍幹部、政府に対する幻滅を覚えている箇所が出てきますね。これは戦犯裁判でも露骨に特定の人物に責任を負わせるための口裏合わせを行なったり、弁護団すら早期帰国してしまった例があったりしたことで、自分の国や軍隊に対する信頼度が低下し、幻滅した面があるのではないでしょうか。

 その傾向は強く見られますね。上官と部下の関係が崩れていく中で、日本軍そのものに対して不信感や幻滅を覚える兵士たちも多かった。この点は、吉田先生が『日本軍兵士』『続・日本軍兵士』に書かれた内容とも共通するところではないかと思います。

※この対談は、『南方抑留:日本軍兵士、もう一つの悲劇』(林英一著、新潮選書)刊行を機に行われたものです。

  1. ◎吉田裕(よしだ・ゆたか)

1954(昭和29)年生まれ。東京教育大学文学部卒。一橋大学大学院社会学研究科博士課程単位取得退学。一橋大学社会学部助手、講師、助教授、教授を経て、一橋大学大学院社会学研究科教授。現在は一橋大学名誉教授、東京大空襲・戦災資料センター館長。専攻は日本近現代軍事史、日本近現代政治史。著書に『昭和天皇の終戦史』(岩波新書)、『日本人の戦争観』(岩波現代文庫)、『アジア・太平洋戦争』(岩波新書)、『現代歴史学と軍事史研究』(校倉書房)。『日本軍兵士:アジア・太平洋戦争の現実』(中公新書)で第30回アジア・太平洋賞特別賞、新書大賞を受賞。2025年、『続・日本軍兵士:帝国陸海軍の現実』(中公新書)を刊行。

  1. ◎林英一(はやし・えいいち)

1984年、三重県生まれ。慶應義塾大学総合政策学部卒。慶應義塾大学大学院経済学研究科後期博士課程単位取得退学。一橋大学博士(社会学)。現在、二松学舎大学文学部歴史文化学科准教授。インドネシア残留日本兵の研究で日本学術振興会育志賞受賞。著書に『残留日本兵の真実』『東部ジャワの日本人部隊』(ともに作品社)、『皇軍兵士とインドネシア独立戦争』(吉川弘文館)、『残留日本兵』(中公新書)、『戦犯の孫』(新潮新書)、『残留兵士の群像』(新曜社)など。2025年、『南方抑留:日本軍兵士、もう一つの悲劇』(新潮選書)を刊行。

カテゴリ: 社会
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執筆者プロフィール
吉田裕(よしだゆたか) 1954(昭和29)年生まれ。東京教育大学文学部卒。一橋大学大学院社会学研究科博士課程単位取得退学。一橋大学社会学部助手、講師、助教授、教授を経て、一橋大学大学院社会学研究科教授。現在は一橋大学名誉教授、東京大空襲・戦災資料センター館長。専攻は日本近現代軍事史、日本近現代政治史。著書に『昭和天皇の終戦史』(岩波新書)、『日本人の戦争観』(岩波現代文庫)、『アジア・太平洋戦争』(岩波新書)、『現代歴史学と軍事史研究』(校倉書房)。『日本軍兵士:アジア・太平洋戦争の現実』(中公新書)で第30回アジア・太平洋賞特別賞、新書大賞を受賞。2025年、『続・日本軍兵士:帝国陸海軍の現実』(中公新書)を刊行。
執筆者プロフィール
林英一(はやしえいいち) 1984年、三重県生まれ。慶應義塾大学総合政策学部卒。慶應義塾大学大学院経済学研究科後期博士課程単位取得退学。一橋大学博士(社会学)。現在、二松学舎大学文学部歴史文化学科准教授。インドネシア残留日本兵の研究で日本学術振興会育志賞受賞。著書に『残留日本兵の真実』『東部ジャワの日本人部隊』(ともに作品社)、『皇軍兵士とインドネシア独立戦争』(吉川弘文館)、『残留日本兵』(中公新書)、『戦犯の孫』(新潮新書)、『残留兵士の群像』(新曜社)など。2025年、『南方抑留:日本軍兵士、もう一つの悲劇』(新潮選書)を刊行。
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