
遡ること80年、沖縄の島々に吹き荒れた“鉄の暴風”の下で、学徒隊と称された数多くの中高生たちが命を落とした。ひめゆり平和祈念資料館などがまとめた資料によると、14歳から19歳の男子学徒は「鉄血勤皇隊・通信隊」として1674人、15歳からの19歳の女子学徒は「従軍看護助手」として457人が動員され、男女合わせた21の学徒隊の計1000人以上が戦死している。ただし、記録が残されていない部分もあり、学徒隊の全容は未だわかっていない。
特に沖縄の女学校は戦後すべて廃校となり、悲劇の記録を引き継ぐ後輩は存在しない。師範学校女子部と県立第一高等女学校の生徒で構成された「ひめゆり学徒隊」だけは糸満市の野戦病院跡に資料館があるが、その他の女子学徒については参拝者が少なくなりつつある慰霊碑が残るだけ。
学校が消え、卒業生の高齢化で同窓会の運営も厳しくなった現在、学徒隊の記憶と記録は、時の流れと共に忘れ去られようとしている。今回は、1936年の開校から終戦まで9年間しか運営されず、消滅した旧制中学校の男子学徒の戦争を伝えたい。
開校わずか9年で戦火に消えた沖縄唯一の私立旧制中学
私たちは沖縄県で約25年間、遺骨収集を続けているジャーナリストの夫婦だ。自分たちで活動するだけでなく、引退した遺骨収集の師匠から引き継がれたボランティアの受け入れもしている。2025年2月下旬、全国から集まった二十数名の教員たちを糸満市喜屋武と福地地区に広がる丘陵地へ迎え入れた。
この教員グループとは約10年前から一緒に活動を続けている。教え子と同じ年齢の若者たちが命を落とした沖縄戦を忘れないため、現場で遺骨や遺留品を見つけ出し、遺族へ届ける取り組みを手伝いたいと集ってくれたのだ。

亜熱帯のジャングルにある縦に深い穴が広がる壕の最深部。岩の隙間に手を突っ込んでいた千葉県から参加した女性教諭(52)が甲高い声を上げた。
「え、何これ? 浜田さん見て」と指先で摘まんだものを掲げる。
こちらが重い腰を上げるより早く、頭上から垂れ下がる無数の鍾乳石で頭を打ちつけないように中腰の姿勢で走り寄ってくる。

実は1月中旬、夫・哲二は発掘作業中に誤って約4メートル下の岩場に転落、肋骨を3本骨折していた。まだ治療を始めてひと月あまり、無理をすると折れた骨が臓器を傷つける恐れもあるので、医師からは力仕事は厳禁との指示を受けていた。それゆえ現場では監督役しかできないので、何か見つけると先生たちの方から駆け寄って来てくれるのだ。
「“中”って書いてあるけど……」
私たちの活動に初参加だった教諭は、興奮して見つけたものを差し出してきた。
手に取ってライトをあてると、3本の松の小枝が重なる三角形の合わせ目に「中」の文字。一目見て、旧制中学校の帽章であろうと予測できた。というのも、2022年3月、同じく糸満市で沖縄県立第一中学校(現沖縄県立首里高校)の帽章を見つけているからだ。真鍮製だが簡単に折れ曲がるほどの薄さで、大きさもほぼ一致していた。緑青の浮いた錆具合や石灰岩の付着度を見ても、戦争中のものに間違いない。
どこの学校の校章なのだろうか。戦時中の壕内に旧制中学校の生徒がいたのならば、沖縄県内の学校に通っていたと考えるのが自然だ。ただ、県立一中の帽章を発見した折、女子校を含め県内ほとんどの校章を調べたが、これは見たことがない。もしかしたら沖縄県外の学校かもしれない。ネットや図書館でいくつか調べると、福岡県にある西南学院の旧制中学時代の校章に似ていた。写真を送って確認してもらったが、微妙にデザインが違っているそうだ。
他にも、全国の校章や帽章を辿ってみるが、旧制中学校の記録はあまり残っていないことも多い。形だけを見れば岩手県の盛岡一高もほぼ同じだが、旧制中学ではなく高校なので肝心の“中”の文字がない。手詰まりになって腕組みしていると、発見現場にも同行取材していた沖縄テレビ(OTV)の松本早織記者から、「過去に取材した映像のなかに似ている校章を見つけた」との一報が届いた。
それは、旧制中学の同窓生が、戦争で実施できなかった卒業式を25年ぶりに行ったというニュース。白黒の不鮮明な映像ながら、卒業証書に記された三角形の校章が映し出された。まんなかに“中”の文字も薄っすらと見えている。証書には「開南中学校」と書いてあった。
「開南……、開南かもしれません!」
電話越しの松本記者の声が震えている。
開南中学校は1936年に創設され、戦争が終結する45年に廃校となった。当時では珍しい私立の旧制中学校で、沖縄県では唯一だ。わずか9年間しか存在しておらず、学徒が兵士として配備された旧日本軍の部隊名も一部しか判明していない、まさに「幻の学徒隊」である。
那覇市歴史博物館に同窓会の会誌が残されているという情報を掴む。さっそく出向いて、その表紙に描かれた校章の画像と女性教諭が見つけた帽章を重ね合わせてみた。
完全に一致。
「やっぱり、開南だったの! すっごい、ビンゴ……」
同行した松本記者の頬は紅潮し、普段は冷静なOTVの新垣隆雄カメラマンの撮影にも力がこもる。
というのも、沖縄戦の終結から80年、女子学徒の校章はこれまで、別の遺骨収集チームが数個を発見しているが、男子学徒は私たちが見つけた一中の一例のみ。ましてや幻の学徒隊とされた開南中の帽章、校章は、その存在を確認できる資料がほとんどなかったからだ。

帰国子女も多かった開南中
まず、誰が身につけていたのか、これが気になる。発見したのは、本島南部の丘陵地帯に広がるジャングルの中の自然洞窟。沖縄戦の終結間際に、住民が避難していたという情報もあれば、軍が使用していたとの証言も。そこで何があったのか。関係者たちの記録や資料集などをひもとくと、戦闘の最前線に放り込まれた開南中学徒の悲惨な状況が浮かび上がってきた。
上級生である4、5年生(15~17歳)の一部は「鉄血勤皇隊」として第62師団の独立歩兵第23大隊へ配属。中部の要衝である宜野湾市の嘉数高地で、1945年4月初旬からの戦闘で大隊がほぼ全滅している。進撃してくる米軍の戦車と真正面からぶつかり、ときには肉薄攻撃をしかけたのだ。学徒の一部も爆雷を背負って戦車へ突撃させられた、という証言を聞いたことがある。
下級生の2、3年生(13~15歳 ※法令では召集対象は14歳以上の志願者のみ)は「通信隊」として第24師団司令部などへ配属。最初に渡された武器は手榴弾と“軍用槍”だけの軽装だった。歩兵第32連隊第三大隊へ転属した6月初旬、糸満市国吉の丘陵で最後の防衛線を守備する戦闘へ。押し寄せる米軍を相手に死闘を繰り広げるも、指揮をする大隊長が火炎放射などで負傷し、後送先の壕で戦死。そこで8月末まで戦い続け、最後は武装解除を受けていた。

今の時代だと中高生の年齢である。動員された少年兵たちの大半が戦死したという。彼らのあまりに過酷な体験に驚き、言葉を失いながらも、新たな手掛かりとなる情報を得るために生き残りの学徒や遺族を探し始めた。
戦前の沖縄は、ハワイや南米、東南アジアなどへ多くの移民を送り出していた。開南中は、「進学率が全国で最下位である沖縄県の中等学校教育を振興し、海外に移住した県出身子弟の教育機関を確保すること」を目的に創設。開校当初は、海外移民の子弟たちが数多く学んでいたという。1941年に太平洋戦争が勃発すると、一部の生徒は移住先の国へ戻ったとされているが、その実態や実数は判っていない。
「白梅学徒隊」を編成した県立第二高等女学校の同窓会長だった中山きくさん(享年94)の証言でも、ペルーなど海外の移住先から日本の教育を受けるために帰国してそのまま女子学徒隊に配属され、戦死したり、大ケガを負ったりした生徒がいたという。
また、終戦から60年の慰霊祭に参列した大城政子さんの話を思い出した。糸満市国吉にある白梅の塔近くの壕で米軍の火炎放射を浴びて、大城さん自身も背中などに大やけどを負い、帰国子女だった学友が戦死した様子を涙ながらに語ってくれたのだ。
開南中は終戦と同時に学校の継続ができなくなって9年間しか運営されていない上、沖縄戦で数多くの生徒が亡くなっている。卒業生や在籍者が少ないため、関係者探しは困難を極めた。
開南中の記録が少ない理由もよくわかっていない。那覇の街を焼き尽くした1944年の10・10空襲後、焼け残った校舎を陸軍病院が使用するようになり、学校は識名にあった教頭宅へ移転。学徒たちは、そこを拠点に陣地構築や電話線の仮設工事などに動員された。
米軍の空襲が激しくなった3月下旬、鉄血勤皇隊の隊長を務めた教頭が「この空襲下では学校としてまとめて入隊するのは難しい」と、各生徒へ個別に入隊を指示。それぞれがバラバラに行動したことも後の調査を困難にしている。なかには、「開南中生に告ぐ」との張り紙を見て、自宅近くの部隊に飛び込みで入隊した学徒もいたという。
その結果、開南中に関しては、動員された学徒の数や戦死者数などが判る明確な名簿や記録が、県などの資料にも残っていない。1970年頃に同窓生や遺族らが協力して作成した名簿には、190人の学徒が犠牲となったと記されており、その氏名を刻んだ慰霊碑(開南健児之塔)が太平洋に臨む糸満市の平和創造の森公園に建立されているが、この数は国の公式な記録に反映されていない。

壕は住民を追い出して日本軍が使用していた
このまま何も解明されないのかと関係者らが落胆していた折、学徒隊の実相解明に光明を投じるような資料に辿り着いた。2019年9月に国立公文書館が公開した、沖縄戦へ動員された生徒の名前や部隊名、住所などを示した国の「学徒名簿」だ。

資料をひもといた那覇市立上山中学校の大城邦夫教頭(54)によると、厚生労働省が保管していたもので、開南中学校の学徒71人の名前、住所、所属部隊も明記された名簿が含まれている。戦死したとされる者の中には、13歳で動員された学徒もいた。
幻の学徒隊をめぐる貴重なデータだが、この資料と過去の証言だけで壕内から見つかった帽章の持ち主を割り出すのは、やはり無理がある。何とか手掛かりが掴めないものか、帽章が見つかった壕の戦時中の状況も調べてみる。
近くの集落出身で、沖縄タイムスの写真部長だった大城弘明さん(75)が貴重な情報を寄せてくれた。大城さんの父方と母方の祖母家族が、空襲の激しくなる4月頃からこの壕へ避難していたというのだ。
1945年の初夏、米軍の進出と並行して戦火は南部へ飛び火。近くの集落で暮らしていた住民の高齢者や女性、子供ら100人前後が、小学校のプール(25メートル×15メートル)ほどの広さがある壕内に隠れていた。鍾乳石の突起や散乱する岩を避け、傾斜のある地面や岩の隙間などへそれぞれが寝転ぶのも難しいほどひしめき合っていたそうだ。そこへ6月中旬、十数名の日本兵が来て、「ここは軍が使うから」と住民を追い出して居座った。

大城さんの父方の祖母は、壕を追い出された後に海岸線で食べ物を探し歩いていたら4人の日本兵に
そして母方の7人の家族は、日本兵が来る少し前に壕から出て自宅の庭に掘った浅い避難壕に隠れていた。そのとき上空から襲った米戦闘機の機銃弾が、祖母の左目と鼻を削いで右腕を貫通し、隣にいた母の左胸に命中して止まる。近くの野戦救護所にいた沖縄出身の衛生兵が止血などの治療をしてくれたが、戸板に載せないと移動できないほどの瀕死の重傷。
そんな追い詰められた状況でも一同は、アダンが生い茂る海岸線や岩場に隠れながら、激しい戦火の中を決死の逃避行。最後は家族がバラバラになり、米軍の捕虜となった後は収容所を転々とする暮らしを余儀なくされるも、祖母と母は奇跡的に助かる。ただ、壕内の暮らしなどで衰弱していた曾祖母が亡くなった。
この時期の糸満市周辺は、海からは艦砲の砲弾が撃ち込まれ、空からは米軍の戦闘機が逃げ惑う人々を機銃掃射で追い回していた。まさに鉄の暴風が吹き荒れる修羅場。行き先を失った集落の住民は、次に逃げ込んだ別の壕でも日本兵からの追い出しに遭い、6月15日から20日までの6日間で同集落の26人が死亡している。 (つづく)