「特攻文学」に潜む普遍性

井上義和・坂元希美『人はなぜ特攻に感動するのか』(光文社新書)

執筆者:前田啓介 2026年4月8日
カテゴリ: 社会 カルチャー
2023年に公開された『ゴジラ-1.0』で、神木隆之介演じる元特攻隊員・敷島浩一が命懸けの作戦に参加する姿に、観客は感動した(C)Usa-Pyon / shutterstock.com

人はなぜ特攻に感動するのか』は、教育社会学者の井上義和氏とライターの坂元希美氏が、古今東西の“特攻映画”が人を感動させるメカニズムについて語り合った対談本だ。文筆家で戦中派に関する著作もある読売新聞の前田啓介記者による書評。

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 いつものようにぼんやりとニュース番組を見ていた3月初めのある夜のことだ。スポーツコーナーでは、間も無くはじまるワールド・ベースボール・クラシック(WBC)について、メジャーリーグでも活躍した元有名プロ野球選手が、中継先からあるアメリカの選手を「愛国心の強い選手だ」と紹介していた。その時スタジオのニュースキャスター氏の表情はワイプの中で、職業的愛想笑いも浮かべず静止画のように固まったままだった。思いがけず発せられた「愛国心」という言葉に、ニュースキャスター氏は完全にフリーズしてしまったように見えた。この国のある層にとっては、愛国心は禁句とまでは言わなくても、抵抗感は強いのだろう。

 この日から10日ほど経った夜、今度はしっかりとあるドキュメンタリ―番組を観ていた。NHKスペシャル「原発事故 埋もれた封じ込め作戦」は、2011年3月の東日本大震災での福島第一原発事故の処理を巡って準備された極秘作戦の実態を明らかにしようとしていた。その作戦というのは、爆発した原子炉に大量の砂や水、ドロマイトを投入し放射性物質を封じ込めるというチェルノブイリ原発事故で行われた「石棺」を参考にしたものだった。問題は、その危険極まる作業を誰が現場でやるか。番組のホームページに記された言葉をそのまま使うなら、「最大の課題となったのは『誰が命を懸けるのか』」だった。

瞬間、我が身を顧みず、体は動いてくれるだろうか

 その「誰」になったのが、國分信一さんという東電の社員だった人物だ。番組のテロップで76歳とあるから、事故当時は60歳か61歳だろう。東電側は「ロートル(年寄)がやるしかない」、「若い人たちを投入させるわけにはいかない」と考えていた。作戦を聞かされた時のことを振り返り、「もうそれしか無いのかなと思いました。最後の手段として」と思った國分さんは、地元の福島県出身、18歳で東電に入社し、第一原発の建設に参画した。以来50年、施設の補修や点検など業務に関わり続けてきた。「『希望者は名前書いてください』と回覧がまわって、私も名前を書いて出しました。何の戸惑いもなくさっと書いてスッと渡しました隣の人に」と答え、笑顔まで見せていた。取材者が「どうして自分が行かなければならないと感じたんですか」と聞くと、一瞬間があり、「まあ、もう年も年だしね、少しでも対応できれば、これだけ一般の人に対して避難生活させちゃったというそういう責任もあるかなと思っていました」と答えた。そもそも東電が起こした事故ではないかという批判もあるかもしれない。だが、生と死を分かつ境目に引かれた線の上に立って、「一般の人」を守ろうとした姿に私は感動した。

 その理由は明快に説明できる。國分さんのようなことを私が出来そうにないからだ。目の前で溺れている子供を救うため川に飛び込めるか。瞬間、我が身を顧みず、体は動いてくれるだろうか。

 自分は出来ると断言できる人は多くないだろうし、その場に挑んで出来なければ意味もない。それが分かるからこそ、私たちは身勝手に、自分の命を捨てて、人や故郷を守ろうとした人の行為に胸を打たれる。映画『Fukushima 50』(2020年)にも似た場面が登場する。原子炉の格納容器の圧力を外に逃がす作業を手動で行う必要に迫られた際、1・2号機当直長の伊崎利夫(佐藤浩市)が「誰か一緒に行ってくれるヤツはいないか」と呼びかける。ほぼ全員が手を挙げたところで、「だけど若手はダメだ。ベテランから選ばせてくれ」と伝える。

禁忌の意識の底で共鳴する感情

 本書『人はなぜ特攻に感動するのか』は、帝京大学教授の井上義和さん(1973年生まれ)と、ライターの坂元希美さん(1972年生まれ)との対談本だが、この場面について、坂元さんが「〈宇宙戦艦ヤマト〉の主題歌でいうところの『誰かがこれをやらねばならぬ/期待の人が俺達ならば』(二番)という状況ですね」と言うと、井上さんは「はい。『俺たち』が身体を張って食い止めなければ、故郷を、この国を守ることはできない。そう信じるからこそ、命懸けになれる」と応じる。

 人の命を救う行為は尊い。だが、命を懸ける対象が国となるとその献身に同意できないとなる人もいる。国のために亡くなった人への称賛は危険でしかない。確かにそういう面はある。碌でもない国家のために死ぬのはごめんだし、為政者の利益のために多くの国民が死なねばならない状況は避けなくてはならない。そんなことは先の大戦で310万人もの同胞を失った私たちはよく分かっているはずだ。それなのに、なぜ私たちは国を含めた自分以外の存在のために身体を張り、命を懸ける行為に感動するのか。本書は、特攻そのものを題材にした『あの花が咲く丘で、君とまた出会えたら。』(2023年)や先述の『Fukushima 50』を含め、『インデペンデンス・デイ』(1996年)、『ディープ・インパクト』(1998年)など特攻的側面を持つ作品を題材に、京都大学の大学院で同じ研究室に在籍していたという井上さんと坂元さんが対談を通して、その理由を考察している。議論の前提には、特攻文学を分析し、感動と継承のメカニズムを解明しようとした井上さんの前著『特攻文学論』(創元社)での主張がある。

 本書の「はじめに」で井上さんはこう主張する。「特攻文学的な感動を、市民社会に通じる言葉で説明することは難しい。説明されてもそれを受け入れることはもっと難しい。なぜか。太平洋戦争の悲劇の象徴である特攻隊を、ポジティブな感動と結びつけてはならない、という強い禁忌の意識があるからだ」。その上で、井上さんは「特攻隊の物語」に接する時、「正しさのメガネを通して見る習慣が身についている」とし、そのメガネには二つのレンズがあり、一つは「史実から逸脱していないか」など歴史の知識に基づく「歴史的正しさ」で、もう一つが「特攻を美化していないか、加害の側面を無視していないか」という歴史認識に関わる「政治的正しさ」だと述べる。このレンズの度数が高くなると、「特攻文学的な感動を抑圧して」しまい、特攻をテーマとした作品に接した時、その物語に潜む「普遍性」が見えなくなってしまうという。だから、井上さんは、この「リミッター」を外し、「心の奥深く」で共鳴する自分の感情を見つけようとする。

統治機構ではない想像力の中の「祖国」

 本書でもっとも多く紙幅を割くのが、2023年に公開された『ゴジラ-1.0』だ。興行的に成功したばかりではなく、日本アカデミー賞では優秀作品賞を始め、12部門で受賞。さらに、米アカデミー賞でも、視覚効果賞を受賞した。主人公の元特攻隊員・敷島浩一(神木隆之介)は生き残ったことで後ろめたさを感じ、自分の戦争を終えることができていない。大戦中、敷島は出撃したものの「死にたくない」と思い、大戸島に不時着する。そこでゴジラに襲われるのだが、敷島は機体に装備された機銃を撃つことができず、固まってしまう。その間にゴジラは整備兵たちを次々と殺し、生き残ったのは、敷島と橘宗作(青木崇高)だけだった。もし機銃を撃っていれば、自分は殺されたかもしれないが、整備兵たちを助けることはできたかもしれない。そのことが、敷島に「生き残りの負い目(サバイバーズ・ギルト)」を感じさせ、苦しめることになる。井上さんは、そんな後ろめたさの感情を抱えた人たちが、「あの戦争をどのように受け止めて、乗り越えて、終わらせるかというのが、物語の軸になります」と指摘する。その後ろめたさを一つの動機として、敷島はゴジラとの戦いにのぞむ。

 何のために死ぬのかということは、何のためなら死ねるのか、ということでもある。それが敷島の場合、「明子」という実の子ではない「娘」であり、「娘」が表象しているのは、「未来」だった。そして「未来」は娘そのものだけではなく、娘が生きる未来の日本、そこに生きる人たち全てだ。その両者が重なるところに「最強のモチベーション『祖国の未来』がある」と、井上さんは言う。この場合の「祖国」は、国家機構ではない。「想像力や物語の次元にあるもの」というのだ。坂元さんが「『故郷』などが思い浮かびますが、それとは違うんですね」と確認すると、井上さんは「祖国の想像力の土台にあるのは、先人が大切に育んできたものを受け継ぎ、豊かにして次の代に託すという継承の物語と、それを守るために戦った死者たちの記憶です」と答える。さらに「死者たちの記憶」は、狭い意味では「戦死者」だが、「代々継承に尽力してきた先人」も含まれるという。

 先述した元東電社員の國分さんは、統治機能としての「日本」のために命を懸けようと思ったのではないだろう。この時、國分さんの念頭には、故郷の面影と、自分と同じくその故郷を失った人があったのではないだろうか。番組の最後に、國分さんが避難先から自宅のある双葉町に戻り、拍子木を鳴らしながら、夜警をしている様子が映っていた。人が生まれ、育った土地には、そこで生きた人の霊魂が残る。

「死にゆく人」の意志の重み

 本書で指摘される重要な点は、『ゴジラ-1.0』を始めとする多くの作品で、特攻に近い作戦が「自発的な行動」によって実行されていることだ。国による強制ではなく、「自由意志」によって行われる。あくまで「自由意志」で、「自発的な行動」であることが、特攻がエンタメとして受け入れられる条件なのだ。

 あとがきで坂元さんは「〈死にゆく人〉は、必ず哀れなのか」と自問して、「そんなことはない」と言い切る。「たとえ運命を呪いながら怒りをぶちまけたとしても、絶望に打ちひしがれても、〈死にゆく人〉は最期の瞬間まで生きてゆく」と書く。私は『戦中派―死の淵に立たされた青春とその後』(講談社現代新書)という本の中で、戦中派の心情を追った。こだわったのは軍隊に入る前の彼らの生活を紹介することだった。彼らは、人生に希望を持っていた。もっと言えば、彼らは最期の時まで希望を失うことがなかった。特攻作戦の一員となってさえ、いや、だからこそ希望を失うことを拒絶した。無抵抗に、無定見に死に赴いたのではない、あくまで「自由意志」だったのだと思いたかった。彼らは考え続けた。なぜ死ぬのか、何のために死ぬのか、と。彼らは死ぬその時まで、生きていたのだ。

 そんな時代は子供たちの「未来」のためにも、訪れない方が良いし、そう願っている。だからこそ、イデオロギーがどれだけ喧しくても、生きながら、目前に迫った死の意味を考えなければならなかった彼らの死の意味を重く受け止めなくてはならない。

 我々の生は、常に誰かの献身に支えられている。誰もが生きたいと思う。大切な人といつまでも一緒にいたい。その思いがもう叶わないことを覚悟した人に、私たちは生かされている。時に、その行為の動機を「愛国心」と呼んだとしても、その事実は主義思想をはるかに超える。

井上義和/坂元希美『人はなぜ特攻に感動するのか』(光文社新書)

◎井上義和(いのうえ・よしかず)

1973年、長野県松本市生まれ。京都大学大学院教育学研究科博士後期課程退学。京都大学助手、関西国際大学准教授等を経て、帝京大学共通教育センター教授。専門は教育社会学、歴史社会学。著書に『特攻文学論』『未来の戦死に向き合うためのノート』(ともに創元社)など。

◎坂元希美(さかもと・のぞみ)

1972年、京都府京都市生まれ。京都大学大学院教育学研究科修士課程中退後、作家アシスタントや業界専門紙誌を経て、フリーのライターに。おもにウェブメディアで幅広く取材、執筆中。がんサバイバー。

 

 

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執筆者プロフィール
前田啓介(まえだけいすけ) 文筆家/読売新聞記者。1981年生まれ。滋賀県出身。上智大学大学院修士課程修了。戦争を中心に、昭和史に関わるテーマを幅広く調査、執筆してきた。坪島文雄侍従武官らの日記や書簡など一次史料の発掘にもかかわる。単著に『辻政信の真実 失踪60年――伝説の作戦参謀の謎を追う』(小学館新書)、『昭和の参謀』(講談社現代新書)『おかしゅうて、やがてかなしき――映画監督・岡本喜八と戦中派の肖像』(集英社新書)、『戦中派――死の淵に立たされた青春とその後』(講談社新書)。
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