
セルロイドの破片に刻まれた小学5年生の氏名
帽章の持ち主探しと並行して、同じ壕で遺骨収集を続けていたところ、新たな遺留品を発見した。マーブル模様が施されたセルロイドの破片。千切れ飛び、一部は溶けて変色している。もとは裁縫箱や筆入れだったのか、それとも下敷きか……。原形をとどめていない切れ端が2個、岩の割れ目に落ち込んでいた。それに持ち主の氏名が刻まれていたのだ。
まず一つ目に“初五 オシロキヨ”と。二つ目は“大シ”だが、その先は失われてしまっている。初五は「初等科五年」を表し、オシロキヨと大シの刻みを重ね合わせると、「大城キヨ」と読み解けないか。国民学校初等科(現在の小学校にあたる)五年、大城キヨさんが持ち主だと推理できる。

この発見について大城弘明さんへ問い合わせてみた。
「あい、驚いたねぇ! それは、我が家の隣に住んでいた親戚のキヨさんのものかもしれない。年齢から逆算すると、終戦時は確か六年生ぐらいだったと思う。私が住んでいた集落には、現在も過去も大城キヨという氏名の方は他に思い当たらないので、間違いないだろう」
なんという巡り合わせ。大城弘明さんに調べてもらうと、1932年10月生まれのキヨさんも戦時中、この壕内に隠れていた、という同行者の証言が残るそうだ。それは国民学校の初等科を卒業する前後だったのだろう。「五年」と刻んだのは、沖縄戦が始まる前かもしれない。

「あんたの、ネーネーが撃たれたよ!」
近くに同級生がいると聞いたので訪ねてみた。
川門徳栄さん(92)。キヨさんと同じ国民学校に通っていた。そして、同じ壕内に6月まで隠れていた。が、艦砲や空爆が頻繁に着弾するようになり、危険が迫っているように感じた家族が、軍の追い出しに会う直前、一同を連れて脱出を試みる。

ひと足先に縦穴の壕口へ出てきた徳栄さん。後ろに続く姉・ハツさんへ差し出した右手に真っ赤に焼けた砲弾の破片があたり、前腕が抉られ、火傷を負った。あまりの激痛に握っていた手を放してしまったが、後ろにいた親戚が姉を抱きとめて、転落はまぬがれた。
さらしを巻いた腕を吊って、ゴツゴツした琉球石灰岩が突き出た丘を姉に支えられながら越える。激しい砲撃を受けてジャングルの木々はまばらになり、砕かれた大小の岩が行く手を阻む。ようやく辿り着いた喜屋武岬に近い荒崎の海岸線で米軍に見つかって捕虜となり、男女別に集められる。
そのとき、女性の一群から悲鳴とどよめきがあがった。
「あんたの、ネーネーが撃たれたよ!」
一緒に行動している誰かの悲痛な叫びが、耳に飛び込んできた。
姉が後ろから撃たれて絶命したというのだ。駆け寄りたかったが、近づくことは許されない。
後に母から聞いた話だが、撃ったのは日本兵。投降する住民を保護していた米兵を狙ったのか、それとも「生きて虜囚の辱めを受けず」との戦陣訓を民間人に強要しようとしたのか、今も判らないという。放たれた銃弾は姉だけでなく、すぐ隣にいた親類の命も奪ったそうだ。
一方、キヨさんは鉄の暴風にさらされながらも生き延びる。4人の子宝に恵まれ、2022年、90歳で天寿を全うした。3人きょうだいの長女だったが、幼き頃に母を亡くし、出征した父は復員しなかった。母方の伯母に育てられ、戦時中も弟や親類、集落の人たちと一緒に壕へ避難していたのだろう、と大城弘明さんはいう。

キヨさんの名前が刻まれたセルロイドの切れ端は、次女の新崎枝美子さん(58)と三女の比嘉和美さん(55)へ返還した。他人が見たら古ぼけたゴミにしか見えないセルロイドの切れ端を娘たちは慈しむように手に取って、刻まれた文字を指でなぞった。そして、ひと言、「かあさん……」と呟き、涙を拭う。
「戦前、戦中と苦労したので、よく働く優しい母でした。物を大切にするので、何にでも名前を書くのです。針仕事が好きだったから、これは裁縫箱かな。ゴーヤ作りに励み、一時は地域の特産にもなったほど。でも、戦争の話はほとんどしてくれません。聞いても嫌そうな顔をして……。よほど辛いことがあったのでしょう」
生前のキヨさんを娘たちは振り返る。
帰り際、大城弘明さんも遺留品の切れ端を手に取って、キヨさんの思い出を話す。
「作った野菜をニコニコしながら我が家の軒先へ置いてゆく姿が忘れられない。地獄絵図だった戦時中の壕底へ、残さざるを得なかった品がやっと帰ってきたのよ。生きていたら、どんな顔して受け取ったかねぇ」
住民を地獄の淵へ駆り立てた日本兵たちの末路も悲しい。終戦後に集落の人が壕へ行くと、投降を拒否した兵士たちが米軍からの爆弾や火炎放射器などによる攻撃を受けて全滅していた。追い出された住民のほうが一部を除いて生き残るという、皮肉な結果となる。

白梅学徒隊が看護した瀕死の開南中生徒
そんな激戦と悲劇の場となった壕の奥から出てきた帽章を誰が持っていたのか。避難していた住民に開南中の学徒が混ざっていたのか、それとも全滅した日本兵の一人だったのか。大城さんによると、当時の集落は貧しくて、子供が私立中学へ通えるような家庭はほとんどなく、学徒隊に加わった人がいたという話も聞いたことがないという。
となると、持ち主は日本兵の側にいたことも考えられる。この付近には沖縄戦が終結する直前の6月半ばから、第62師団の師団長や主力部隊の一部が駐屯しており、その中に開南中の学徒が配属された大隊の生き残りが混在した可能性もある。
新たな情報はないかとインターネットの記事を検索していると、東京新聞の木原育子記者(43)の記事を見つけた。祖父の兄が第62師団に所属し、この壕の近くで6月20日に戦死したとのこと。もしかしたら、住民を追い出した側の日本兵の一人だったかも。
声をかけると、二つ返事で取材に訪れた。日本人の「被害」の経験だけでなく、「加害」の事実も伝えたい、との意欲にあふれている。が、厚労省や防衛省などに問い合わせたり、記録や資料を手繰ったりしても、大伯父の戦場での詳細な行動は見えてこないという。
木原記者の頑張り次第では、帽章の持ち主の学徒と第62師団に所属した大伯父が行動を共にしていたことなどが判明するかもしれない。そうなれば、沖縄の県民同士が「追い出した側と追い出された側の当事者」になってしまう、耐えがたき現実を知ることにもなり得る。まだ14歳~19歳の少年兵が直面した過酷な運命とその心中を考えると、なんとも胸が締め付けられる。
前述した国が公開した資料によると71人の開南中学の学徒は、第62師団、第24師団、第32軍直轄の部隊に分散されており、データ上はまとまった数で一つの連隊には所属していない。それゆえ、解散した他の部隊の敗残兵であることも視野に入る。この壕で生き残った日本兵がいない中、帽章の持ち主を所属部隊から割り出すのも簡単ではなさそうだ。
一縷の望みをかけて、発見した帽章を学徒隊の生き残りに見せた。白梅学徒隊の従軍看護助手として、第24師団の第一野戦病院へ配属されていた武村豊さん(96)だ。手にした途端に目を輝かせながら声を上げた。
「これは男子のものよ。“中”の文字がその証。女子は高等女学校だったからね。でも、見覚えがない徽章ね。どこのかしら……」
小首を傾げながら、緑青の浮いた帽章を手に取る。資料を見せながら開南中だと説明すると、「えっ!」と驚きの声を上げるも、目を伏せたまま黙り込んでしまった。

戦火を潜りぬいた体験から80年、沖縄戦を語り続けてきた女子学徒もあと数年で紀寿(きじゅ・100歳)を迎える。曖昧になった記憶を懸命に呼び覚まそうとするも……。
「私たちの学校と開南中は、ほとんど交流がなかったのよ」
これが絞り出すように紡いだ言葉。1世紀近い人生の旅路をすべて振り返るのは簡単ではないのだろう。何とも言えない表情で、私たちを見あげてきた。
だが実は、武村さんたちが編集委員となって2000年に出版した『白梅 沖縄県立第二高等女学校看護隊の記録』の中に、決定的な証言があった。前述の中山きくさんと武村さんが、開南中の学徒兵の手当てをしたというエピソードが盛り込まれているのだ。そのページを見てもらいながら、食い下がる。

第24師団の第一野戦病院に勤務していた白梅の女子学徒たち。記述によると、激戦のさなかに負傷して運び込まれた開南中の稲嶺さん(同中の戦没者名簿から、4年生の稲嶺盛仁さんか2年生の稲嶺清二郎さんとみられる)のことが忘れられないという。あまりの重傷で助かりそうもない患者が収容される、壕入り口の擬装小屋にいた男子学徒だった。
「肩をやられ、わずかに繋がった皮で腕がブラブラしていました。千切れた部分は壊疽を起こして真っ黒になり、傷口にウジがいっぱい蠢いて肉を食んでいるのです。同じ学徒の中山さんらと交代で応急処置するも、軍医による治療は最後まで施されませんでした。腕の皮を切り、ウジを取るだけの私たちの拙い手当てを喜んでくれましたが……」
本のくだりを読み上げると、武村さんは涙ぐんだ。
「あの大激戦地で苦楽を体験した同年代の“戦友”の哀れな姿を思い出すたびに、胸が痛むのよ」
それが白梅の同窓生なのか、開南中などの学徒なのか、はっきりと語らなかったが……。
別れ際、病院へ運ばれてくる学徒たちが、帽章を付けた学生帽や軍帽を被っていなかったか聞くも、武村さんは小さく首を振る。激務だった野戦病院での日々、看護助手の仕事をするのが精いっぱいで、細かなことは覚えていないとうつむいた。
最後の希望はDNAマッチング

最後に残された手段は、掘り出した遺骨と開南中学徒の遺族とのDNAのマッチングになる。幸いにも、壕内部や周辺から大腿骨などの遺骨の一部が出土している。掘り出したのは、教員グループと一緒に遺骨収集に参加した静岡県伊東市立門野中学校の3年生、小野寺穂花さん(14)と原田理愛さん(14)たち。小野寺さんの父親の誠さん(41)と初めて取り組んだ遺骨収集だった。
「私たちと年齢が変わらない男の子たちが、こんな場所で戦死するなんて……。悲しくて、切なくて、胸が痛い。どんな人だったのかなぁ、未来への夢や希望はなんだったの。最初は戸惑ったけど、もっと、もっと掘って、探したいな。そして大好きだった家族のもとへ帰らせてあげたい」
帽章の話を聞いた二人の中学生は涙を流しながら、沖縄への再訪を誓い合う。
遺骨の仮納骨の準備と並行して、この記事の執筆を進めていたら、“開南中の帽章を発見”という沖縄テレビの速報を見た遺族から次々と連絡が入り始める。最初は、第7期生だった伯父の仲村渠善正さんを亡くした仲村家治・県議会議員(63)から。「開南中遺族会」の役員で、慰霊祭の開催などに携わっている。
「衆院議員だった父・正治(享年87)も開南中の第9期生でした。家族で本島北部へ疎開する最中、“学徒動員”の報を聞いた伯父と祖母、親類の計4人が引き返しました。その後、学徒として従軍したはずの伯父は、どこの部隊へ所属したのかも判らないまま戦死。(引き返した中で)唯一人生き残った祖母は、息子を戦場に送り出したことを死ぬまで後悔していました」
同窓会と遺族会に所属して兄の慰霊を続けてきた父の後を継いで、活動する仲村議員。記録が残っていないため、伯父が正式な開南中の学徒隊とされていないことに首を傾げて憤る。同窓会は沖縄戦で190人の在学生が戦没したと主張するも、国の資料に載っているのは71人のみで、動員数や戦死者数はいまだに不明だとされているからだ。
「国や家族のために学徒として戦場に赴いた兄の無念を晴らしたいと、亡き父は尽力していました。私もその遺志を継いで、国や県へ声を上げてきましたが……。終戦から80年、高齢化で遺族会が次々と解散し、戦争の記憶と記録の継続が難しくなっています。そんな折に見つかった開南健児の証である帽章。あきらめずに働きかけてほしいと願う伯父や父の声が聞こえてくるようです」
強い視線で前を見据えた。

中学生たちが掘り出した遺骨からDNAが抽出できたら、国の学徒名簿にある71人の未帰還者留守家族を探し当てて、マッチングに臨みたいところ。仲村議員や遺族会の協力を得て、名簿に記載された留守家族の数人とすでに接触できており、期待が膨らむ。
那覇市安謝の金城善忠さん(88)は、第8期生だった兄・善尚さんを亡くした。従軍看護師だった姉・トシさんと幼い妹二人も、戦禍で帰らぬ人となっている。国民学校を卒業するときに教師から辞書を貰うほど優秀だった兄。家族思いで、幼いきょうだいを可愛がってくれたという。年が離れている善忠さんを、同級生と遊ぶ場へよく連れて行ってくれたと懐かしむ。
「沖縄のどこで戦没したか判らない兄と姉を思って、ずっと神仏に祈り続けてきました。ほんとうは生きて帰ってほしかったけれど、DNAの鑑定を申し出ます。そして帽章も遺骨も兄のものだと判れば、父母の眠るお墓へ一緒に入れてあげたい」

開南中学徒隊の悲劇を世に知らしめようと、全国から集まった教員や中学生、同中の遺族たちが、期待を込めてDNA鑑定の結果を待っている。80年前の沖縄戦の犠牲者を“幻”のままにしないために、ウチナーンチュの遺族とヤマトンチュのボランティアが心を一つにして事実の解明に取り組み始めた。
