この「東南アジアの部屋」を始めてから程なく、

「いずれにせよ近い将来に陳平に訪れるだろう“死”はマレーシアの反政府武装闘争史の最終章を意味するだけでなく、かつて北京が華々しく展開していた武装闘争中心の東南アジア政策への晩鐘となるだろう」

 と記し、かつて“革命の輸出”を掲げていた時代の中国共産党の圧倒的支持を背景に、総書記としてマラヤ共産党(馬共)を率い、マレーシアとタイの両国国境にまたがる森林地帯で反政府武装闘争を率いた陳平が危篤状態に陥ったことを報告したことがある。

 福建省福清市の出身の客家を祖先に持つ陳平の本名は、王文華(ONG Boon Hua) 。1924年に現在のマレーシアのベラ州で生まれている。父親は自転車の販売と修理を生業としていたという。幼少期は華僑学校と英文学校で学んだようだが、10代の半ばに読んだ毛沢東の『持久戦論』に惹かれて40年にマラヤ共産党に入党し、マラヤ人民抗日軍を組織し、47年には23歳の若さでマラヤ共産党総書記に就任。以来、一貫してマラヤ共産党を指揮してきた。

 その陳平が、今から1カ月ほど前の9月16日、バンコクのバムルンラード病院で死んだ。この病院は、筆者が8月末のバンコク滞在時に偶然見かけたアラブ系の人々の後をノコノコついて行き、バンコクにおける「医療ツーリズム」の一端に触れた病院である。ここ数年、陳平は“植物状態”にあったとも報じられていたが、あの時、バムルンラード病院の奥深くで、彼は静かに死を迎えようとしていたのだろう。ならば、あの時、敢えて病院の中を探し回ったら、あるいは陳平の病室を突き止めることができたかも知れない。

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