『フルシチョフ秘密報告「スターリン批判」全訳解説』志水速雄訳・解説講談社学術文庫 1977年刊 ソ連共産党第二十回大会でのフルシチョフ第一書記によるスターリン批判「秘密報告」から五十年目の日がやってくる。それは一九五六年二月二十五日未明のこと。この日は、二月十四日から続いていた党大会明けの日となるはずだった。フルシチョフの党中央委報告も初日に終っていた。二十四日夕刻には大会代議員や外国党代表たちは宿舎で、翌日の帰郷、帰国の準備をしていた。が、深夜、外国党代表は除き、ソ連の代議員たちは大会場へ戻れと指示された。だから、真夜中に再開された大会でのフルシチョフ報告は非公開の秘密報告となった。「フルシチョフ秘密報告『スターリン批判』」は、これを扱っている。 この党大会以前、スターリンはソ連では「全知全能の天才」だった。わが国では? たまたまスターリン死去の一九五三年三月、代々木系「ソヴェト研究者協会」が幾多の非日共系著名人の推薦の下、「ソヴェト年報」を発刊した。その一、二号は、永眠したスターリンを「ソ同盟の将来に天才的な指針をあたえた」人物とか、「大スターリン」とか呼んだ。また、「各界の進歩的な人々」や、「民主団体」などが「スターリン追悼国民大会」をなぜか「東京の築地本願寺で仏式」で主催し、中央合唱団による「スターリン・カンタータ」で閉幕、とある。三年後の第二十回党大会当時、私は大学二年生だった。駒場のクラス討論ではスターリンを、また急速上昇株の毛沢東を確信的に激賞できなければ、肩身が狭かった。日本では誰もがスターリンを「天才」視、神格視したわけではないが、そう見た日本人がわんさといたことも事実だ。

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